秋水長天

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神鵰侠侶二次小説  氷輪 

 絡み合った梢のあわい、青みを帯びた白銀の円盤が、冷ややかに地上を見下ろしている。
 樹間に張った綱に身を横たえ、楊過は月を見上げている。
 傍らには、うずくまって眠る神鵰の黒影。その黒い羽毛と木々の葉と、乱れた楊過の髪を、あるかなきかの風が揺らして過ぎる。

 降り注ぐ月の光はただ白く、しんとして冷たささえ感じさせ、身裡に沁み入る心地がする。
 濃藍の夜気に混じるのは、丹桂    金木犀の淡い香り。
 静かな    静か過ぎる夜。
 ふと、その静寂の中、
「姑姑。ねえ、姑姑。来てご覧よ」
 声変わりを過ぎて間もない、不安定な少年の声と、
「何をはしゃいでいるのですか。お前ときたら、いつまでも立って落ち着きのない」
 感情を感じさせぬ、冷ややかにさえ思える女の声が、重なった気がした。
     
 はっとして、目を開く。
 僅かに高くなる鼓動と、夢から投げ出されたあとの、あの独特の感じ。
 月を眺めながら、いつの間にかまどろんでいたらしい。
 それにしてもと、楊過は苦笑する。
    いまさら、あんな子供の頃の夢を……。
 あるいはそれは、あの月が呼び覚ました記憶だったろうか。
 なにを思い煩うこともなく、二人、古墓で暮らしていた    数少ない、幸福だったと云える日の記憶。
 そう。あれは、やがて十六になろうという秋    いや、初冬のことだったろうか。
 あの夜の月輪は高く遠く、さらに冷たく、澄んだ藍色の夜空に冴えかえっていたのだから。
 その月光の下、終南山は深い影の色に沈み、対する古墓の周囲の岩壁は仄白く、いぶし銀のきらめきさえ帯びて浮かび上がって見えた。周囲の草木さえ、淡い銀の縁取りをつけたようで、日々目にしているそれとは全く異なって見える。
 初めて目にした、神秘的ともいえる光景に、楊過は思わず声を上げて小龍女を呼んでいたのだった。
 それを言い表す言葉を持たぬまま。
 姑姑。来てご覧。月が綺麗だよ、と。
「月など」
 返された言葉は、いつもの通り、一切の感情というものを欠いた、素っ気無いものだった。
「珍しくもない。なにより、古墓で育ったわたしには、暗闇の方がよほど落ち着きます。そんなに綺麗だというのなら、お前一人で好きなだけ眺めていたらいいでしょう」
「姑姑……」
 まさに取り付く島もない云い方。声と共に遠ざかる衣擦れの音に、楊過はうなだれる。
 神秘的な景色も、降り注ぐ月光さえが、ひどく色あせたような気がした。
 それでも、古墓の中に与えられた自室には戻る気になれず、外へ出て、入り口の岩壁に背をつけるようにして座り込む。
 今にして思えば、少しばかりすねていたのかもしれない。
 背を丸め、膝を抱え、視線を地面に落として   
 どれほどの間、そうして座っていただろうか。
「過児? 眠ってしまったのですか?」
 優しい声と、そっと髪を撫でる手に、はっと顔を上げる。
 いつの間にか月影はその位置を移し、そうして、その月の輪よりも白い顔が、ただただ静かな面持ちで、自分を覗き込んでいた。
「姑姑……」
「月を眺めているのもいいけれど、眠るのなら自分の部屋へ戻ってからになさい。随分内功が出来てきたとは云え、こんなところで眠っては、体に障ります」
「姑姑、心配してくれたんだ!」
 声を弾ませる楊過に、お前ときたら、と小龍女は僅かに眉をひそめる。
「弟子の体を気遣うのは、師父として当然のこと。それを、お前のように一喜一憂して、いちいち心を動かしていては、いつまでたっても古墓派の武芸は極められませんよ。さあ、戻りますよ」
「…………はい」
 答えて立ち上がりかけ、ふと思いついて、姑姑と声をかける。
 感情を動かすのが禁忌と言うのなら、
「姑姑は、こんな景色を見ても、綺麗だとは思わないの?」
「え?」
 立ち止まり、ややゆっくりとした仕種で、小龍女は振り返る。
 何かにかれたように、二、三歩前に進んだ、その白衣に、背に流した黒髪に、月光が降り注ぐ。
 紅唇が僅かに動き。
 おそらく、小龍女は何かを云ったのだろう。
 しかし、その言葉を、楊過は記憶にとどめてはいない。
 水晶を    いや、月光そのものを集めて人の形に彫り上げたような、その清雅な白い立像に陶然と見惚れていたのである。
 思えばそのころから    いや、この古墓で初めて逢った、この人は氷雪の化身か水晶でできた人形かと畏怖さえ覚えたあの時から、楊過は小龍女に恋をしていたのだろう。
 ただ、その思慕の情を、師父であり庇護者でもある人に対する敬慕の情と、見誤っていた。
 ましてその人が、自分を“男性”として愛してくれようなど、思いもかけぬことだった。
 せめて、もう少し早くそのことに気付いていれば、二人の歩む道は、異なるものになっていたろうか。
 あるいは、この十六年の別れは、避けられたのだろうか。
    いや……。
 過ぎ去って戻らぬことは、もう思うまい。
 ただ。
    龍児、龍児。体はもう、よくなったか?
 寂しがってはいないか。辛い思いはしていないか。
 あるいは、眠れぬままに遠い地で、この同じ月を見上げているのだろうか。
 心のうちで、幾たびとなく繰り返した問いかけを、また繰り返す。
    龍児……。
 目を閉じて、まなうらの白い面影を追う。
 目蓋を、まつげを押し上げて、不意にこぼれ落ちたものがこめかみを伝う。
 枯れたと    とうに流し尽くしたと思っていた涙。
 それでも。
    辛くはない。
 こうして、月を見上げて過ごす夜も、胸を噛む寂寥せきりょうも、約束の日への一歩だと思えば耐えられる。
 胸の痛む思い出も、それが小龍女につながるものなら、ただ愛おしい。
 それでも    。
 どうっと、遠く、風が轟いた。
 夜の鳥が、血を吐くような鋭い声でき、木々の葉がざわざわとざわめいて、胸をかき乱す調べを奏でる。
 月光が     
 しんしんと降り注ぐ青白い光が、身裡に沁みわたり、胸の奥を冷たく凍てつかせてゆく気がする。
 こんな夜は   
 髪を撫でてくれた優しい手が。
 あの声が。
 かつて、確かにこの腕の中にあったぬくもりが。
 無性に恋しい。










氷輪(ひょうりん)=冷たく輝く月



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rei★azumi

Author:rei★azumi
ヒト属ネコ科 コタツ猫亜種 読書ネコ
『神鵰侠侶』で金庸にハマった、金庸初心者。
とりあえず、金庸の小説全作品読破を目指すも、突如神鵰侠侶二次小説にハマる。
さて、この先、どうなりますことやら。

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