秋水長天

 遊子帰客 夢断故郷雲水之間    西風古道 回首一片秋水長天

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神鵰侠侶二次小説 元宵節夜話 夢灯篭

 夢のようね。
 その人は口にしたけれど、わたくしにはその人のほうが    いいえ、その人たちのほうが、美しい夢のように見えた。
 氷雪の化身か、人界に天下った女仙かと思えるほどの白衣の佳人と、その夫らしい黒衣の美丈夫。
 元宵節の夜の中、無数に吊るされた贅と粋を凝らした燈籠よりも、綺羅を飾った見物の誰彼よりも、その二人は美しく輝いて、わたくしの目に映った。




「綺麗ね。本当に夢のようだわ」
 まさに夢見る人の眸で嘆声を上げる妻に、奇麗だろうと楊過は、穏やかな声音とまなざしを送る。
 正月の十五日をはさんでの五夜。街は  いや、この街ばかりではなく、中華の地の大半は、天上の月も光を失って見えるほどの無数の灯篭に埋め尽くされる。絹地に花や山水、人物を描き、五彩の絹糸、造花で飾ったものは無論のこと、金銀、玻璃を飾ったもの。麒麟や龍、鳳凰、伝説の仙人などを象ったもの。さらに広場には、いくつもの燈篭を集めた棚や牌楼(アーチ型の建造物)が立ち、中には伝説の蓬莱と思しい景色を作り上げたものまである。
 祠堂にかけられた燈篭の赤い文字は、前年にめでたく男子が生まれた印。
 それらを眺め、着飾って行き交う人々にもまた、それぞれに工夫をこらした燈篭を手にしたものが見受けられる。
 曲を奏で、様々の扮装で練り歩く人々。
 立ち並ぶ屋台に置かれた色とりどりの品物。
 もとより城市、街中の夜間の通行は自由な時代ではあったが、ことに、この五日間は、市中は文字通り、光に包まれた不夜城と化す。
「一度、お前に見せてやりたかった」
 口にしてから、いや  と、楊過はわずかにかぶりを振る。
「そうじゃないな。一度でいい。こんな風に、お前と眺めてみたかった」
「あなた……」
 と胸をつかれた思いで顔を見上げる小龍女に、淡い笑みを見せると、

花開不同賞   (花開くもともに賞せず)
花落不同悲   (花落つるも同には悲しまず)

 楊過はひくく、詩を口ずさみ始めた。

欲問相思処   (問わんと欲す 相思の処)
花開花落時   (花開き花落つる時)

花が咲いても、あなたと共に愛でることができず
花が散っても、あなたと共に悲しむことができない
花が咲き、花が散るさまを
今、あなたはどんな思いで眺めているのだろう

 そうね。この十六年、わたしもそんな想いだった。口には出さず、夫の方に身を寄せると、お願いがあるのと小龍女は云った。
「聞いてくれるかしら?」
「俺が、お前の願いを聞かなかったことがあるかい?」
 ごく軽く、笑いを含んだ楊過の言葉に、小龍女は小さく声を上げて笑う。
「来年も、連れてきて欲しいの」
「うん?」
「同じ街でなくていいの。来年も、再来年も、その次も  。ずっと、こうして一緒に、元宵節の灯篭を見に来ましょう。ね、いいでしょ?」
「ああ。そうだな」
 ずっと一緒に  おそらくは初めて妻の口から発せられた未来を約する言葉に、楊過は破顔する。
「再来年も、その次も、そのまた次も。ずっと一緒に、祭りを見に来よう。子供が産まれたら、あんな風に肩車をして  
 云いかけた言葉と足が、不意に止まった。 
 その視線の先、
 人の川を隔てた向こう岸、蓮花灯篭を下げた娘が、大きく目を瞠ったまま、立っていた。
 いや。まだ少女といった方が相応しい年頃だろう。いくつもの歩揺をつけ、大きく結った髷がひどく重たげに見える。
 それ以前に  
 その大きすぎるほどの双の眸に宿った、憧憬とも羨望とも、あるいは渇望とも取れる感情の色が、奇妙に印象的だった。
 それが、自分達に向けられたものであることを訝しむ楊過の、そして小龍女の視線を受け、少女は、赤面すると踵を返そうとする。刹那、その華奢な体がぐらりと傾き、大きく前に泳いだ。
 人の波に押されたわけでないのは、浅黄色の裳裾から覗いた、四寸ばかりの桃色の靴で明らかである。
 纏足てんそくと云う、幼時から足を布で固く巻き上げて成長を止めるという奇習は、この時代、中華女性全般に行われていたと思われがちだが、実際にこれを行えるのは、自ら労働に携わる必要のない花柳の女性か大家の子女。そうして、この少女が後者であることは、その服装、髪型を見ただけで明らかである。
 あっと声を上げた少女を、傍らにいた男が咄嗟に支えようとしたは、当然の仕儀。
 ところが、
「いや」
 思いもかけぬほど明確な拒絶の言葉が、少女の紅唇から発せられた。
「な……」
「いや。さわらないで!」
 はっきりとした口調で云うと、少女は男の手を払いのける。
 それを捕まえようとする男と、大きく体をぐらつかせながら、逃れようとする少女。必然的に争いの形になり、大きく動かされた少女の手が、偶然、男の頬の辺りを掠めた。
 呀っと小さな声が上がり、男の頬に鋭く、血の筋が浮かび上がる。
「な……、この女は! 優しくしてやれば付け上がって」
 怒号に続く、激しい殴打の音。悲鳴。
 瞬間、楊過と小龍女は申し合わせたように地を蹴り、次の刹那、小龍女は地面に打ち倒された少女を抱きかかえ、楊過は男の腕をねじり上げていた。
「な……」
 何をと云いかけたらしい男の、いかにも育ちの良さそうな白面が苦痛に歪む。
「親切を傷で報いられて、怒る気持ちは分らないじゃないが、年端も行かない娘さんに手を上げるのは、漢のすることじゃない」
 少なくとも、真っ当な男のな。辛辣な口調で云うと、男を突き放す。
「…………!」
 つかまれた腕を押さえ、顔面を怒りと屈辱で朱に染めると、次の瞬間、男は無謀にも、楊過目掛けて打ちかかってきた。
 それを、動いたとも見えぬ動きで躱す。同時に跳ね上がった右袖が、ぴしぴしと小気味のよい音を立てて、男の両頬を叩いた。
 どっと、周囲の見物人から歓声が上がる。
「な…、お……おまえ、こんなことをして、ただで済むと思ってるのか? 僕の父上はな  
「宰相か、皇帝だとでも云うのか」
 辛辣な揶揄やゆを含んだ口調が、男の言葉を遮る。
「仮に皇帝が玉皇大帝でも、偉いのは親父さんであって、お前さんじゃないだろ」
 その玉皇大帝にすら、頭を下げなきゃならん謂れはないがなと、笑い含みに続いた言葉に、見物人の歓声がさらに大きくなった。
「お……お、おまえ――」 
 顔面をどす黒く染めて大きく肩を喘がせる男の袖を、少爺わかさまと、後ろにいた下僕らしい初老の男が引く。
 耳元に何かを囁かれ、ぴくりとこめかみのあたりを引きつらせると、
「どこの誰だか知らないが、覚えてろ!」
 耳にタコが出来るほどに聞き慣れた、芸の無い台詞を残し、人垣を掻き分けて引き上げていった。
「どいつも、こいつも……」
 少しは変わった台詞を云えないものかと苦笑し、大丈夫かと少女のほうを顧みる。
 抱き起こされた少女は、少しぼうっとした様子で、小龍女に支えられて立っていた。
「ほら、灯篭。火は消えちまったが、おかげで無事だった」
 蓮の飾りのついたそれを拾って差し出すと、少女はまた、あっと小さく声を上げた。
右腕  呟いて、慌てて両手で口を押さえる。
「気にしなくいい。それより、連れは?」
 身なりからすれば、伴も連れずに出歩くような家の娘とも思えない。
 問うと、少女は小さくかぶりを振る。はぐれたのかと問い直すと、再度、今度は少し大きくかぶりを振った。
「家はどこだ?」
 送って行こうというと、またかぶりを振る。
 あとに、
「……たく…………です」
 蚊の泣くような、小さな呟きが続いた。
「え?」
「家には帰りたくないんです」
「?」
「父さまが、范さまのところへ嫁げって。でも、あたし、厭なんです。従兄さまのお嫁になるんだって、小さいときからずっと云われてたのに。あたしも、そう決めてたのに。それなのに……」
 云いかけて、泣き出してしまう。
「……………………」
 何事かと、立ち去りかけた見物人がまた立ち止まり始め、
 小龍女と困惑の視線を交わし、楊過は小さく嘆息する。
 江湖から引退し、妻と静かな暮らしに入るつもりだったが、その江湖では、まだまだ厄介ごとのほうが自分を避けて行ってはくれないようである。


 土地の員外  員数外の役人の地位を金銭で購うという、そういう制度があるのだが  の末娘で韋響鈴。泣きやむのを待ち、ひとまず自分達の宿に連れ帰った少女は、そう名乗った。
 件の従兄さま  周易之は母方の従兄で幼いときからの許婚。互いに心を通わせた仲で、本来なら響鈴が十六になるのを待って  つまりは今年のうちに婚礼を挙げるはずだったという。
 ところが昨年、商売上の失敗から、易之の父は全財産を失うほどの損害を受け、失意のうちに死去。縁談は、どちらから云い出すともなく、破談となってしまった。
 それだけでも響鈴にとっては耐えられない話なのに、父は、先方からの申し入れを幸い、近年、都との縁で勢力を伸ばしてきたという范家に嫁がせようとしている、というのである。
「范さまは、去年の清明節の折に、あたしを見初めたと仰ってるそうですが」
「酷い話ね。本人の気持ちも聞かないで」
 憤りを隠さない  と云っても、他人には、この妻の口調は妙に淡々と聞こえるそうなのだが  小龍女の言葉に、楊過は軽く苦笑する。この時代、世間一般では親が子供の縁談を決めるのは、しごく当たり前のことである。
 が、無論、この二人にはそんな常識は通じない。愛し合うもの同士が結ばれるのが、二人の世界での常識である。
 なんとかしてあげたいわねと云う小龍女の言葉に、楊過も深く頷いた。
 尤もこれは、相手である周易之もまた響鈴と同じ想いでなければ成立しない話であるが。
「ところで  
「はい」
「まさかとは思うが、さっきの男が、未来の夫君と云うわけか?」
 ならば、この少女の示した激しい嫌悪にも納得が行くわけだが、
「いいえ」
 嫌悪を通り越して、冷静にすら感じられる返事のあとの続いた、
「義理の息子です」
 響鈴の言葉に、
「ええっ!?」
 楊過は無論、小龍女までが驚きの声を上げていた。
 いや。もし楊過が絶情谷での婚礼の阻止に失敗していたら、小龍女は自分と四~五歳しか年齢の離れていない義娘を持つことになったのだから、それは、さほど驚くことではないのだが、
「いくら腹が立ったとはいえ……」
「未来の義母に手を上げるなんて」
「あの方は、あたしのことなんて、義理の母親だとは思ってはいらっしゃいません。范さまには、聞くところによると、もう八人も奥様がいらっしゃるそうです」
「それは……」
 呟いた楊過の眼が、些かならず剣呑な光を帯びてくる。
「いつかの老玩童じゃないか、この縁談、どうでも邪魔したくなってきた」
「家宝を盗んだり、部屋を燃やしたりはしないわよね」
「それはまた、後のこととして」
 どうやら、それもやる気ではあるらしい。
 韋姑娘と、楊過は少女の名を呼ぶ。
「その従兄さま  許婚殿と結婚できたとして」
「出来るのですか!?」
「ああ。出来たとして、そうなると、両親も家族も、今の暮らしも  おそらく、この街までも捨てることになる。それでもかまわないか?」
「ええ。ええ! 従兄さまといっしょになれるのなら、あたし、卓文君の真似だって、何だってします!」
 という卓文君は前漢の蜀の富豪の娘。文人である司馬相如と恋に落ちたが、父が許さなかったために駆け落ち。生活のため、二人は父の家の前で酒屋を開き、卓文君は客の相手を、夫の司馬相如は褌一つで皿洗いをした。父はついに二人を許し、財産を与えたという。
「未来の旦那にも、司馬相如ほどの気概があればいいんだがな」
 苦笑混じり、呟いて楊過は通りに面した窓を大きく開け放つ。
 祭りの喧騒に混じって別の騒音  どうやら響鈴を取り戻しに着たらしい韋家か范家の者と宿の使用人の云い争う声が聞こえてきた。


 抜け出した窓から屋根伝い  無論、軽功の使えない響鈴は楊過に背負われることになったわけだが  祭りの人ごみを避けて訪なった周家は、無人かと思えるほどに荒れ、静まり返っていた。元宵の賑わいも無縁とばかり、この家には灯篭も吊るされてはいない。
 偶々中庭に出ていた老僕が、屋根から降り立つ三人の姿を見て、ひゃっと驚愕の声を挙げ、さらに、うちのひとりが響鈴だと認めると、腰を抜かさんばかりに驚いた。
「り……鈴鈴嬢ちゃま。どうやって、ここへ……?」
 幼名を呼ばれて、響鈴は軽く苦笑する。
「久しぶりね、周爺や。お従兄さまはおいで?」
「わ……少爺わかさまに会いに」
「それ以外に、あたしにここに用があって?」
 少女の答えに、老爺の両眼に、じわりと涙が浮かび上がる。
 いそいそと三人を部屋へ通すと、少爺、少爺と叫びながら、あたふたと若い主人の部屋の方へと走っていった。
 通された部屋もまた、火の気は無論満足な家具調度もなく、この家の現在の厳しい暮らしを思わせる。
 待つほどもなく、老僕に伴われて、この家の若主人が姿を見せた。
 二十代半ばほどか。家の没落に手をこまねいていたというから、文弱な書生を想像していたが、想像通りの外見に比し、双の眸には存外、強いものが宿っている。
 その双眸を響鈴ひとりに向け、何の用ですと周易之は冷淡な口調で問うた。
「もう、あなたとの縁は切れたはずだ。ここは、あなたの来るところではない。帰りなさい」
「そんな、従兄さま。あなたとあたしとは、親の定めた許婚。式こそ挙げては居ませんが、あたしは、あなたの妻のつもりでいます」
 妻? と、しごく皮肉な口調で、若者は少女の言葉を繰り返す。
「妻といい夫と云うなら、新しく父上の決められた許婚があるでしょう。まして……親に背くは不幸。夫に叛くは不義、不貞。仮に  仮に、私たちの縁が切れていなかったとしても、そんな女を、この周家に入れることなど、出来るはずがない」
 帰りなさい。
 吐き捨てるように云うと、そのまま背を向ける。
「従兄さま……」
 そんな、非道い。 
 つぶたいた少女が、両手で顔を覆って、部屋を飛び出す。
「じょ、嬢ちゃま!」
 追って走り出そうとした老僕を、
「追うな!」
 鋭い口調で易之は止めた。
「追うんじゃない」
「ですが、少爺……」
「これでいいんだ」
 云って、部屋へ戻りかけ、ひっそりと部屋に佇む白衣の佳人  小龍女の姿に、今初めて気付いたように目を瞠った。
 いや。事実、初めて気付いたのかもしれない。あの少爺、韋姑娘以外は目に入っていないらしいなとの、先ほどの楊過の囁きを思い、小龍女はごく淡く笑む。
「あなたは……」
「夫の姓は、楊といいます」
「いえ、あの、そういうことではなくて」
「はい?」
 おっとりと首をかしげる佳人に、易之は戸惑ったように眼を瞬いた。
 その若者を、小龍女は、静かなまなざしで眺める。
「あなたは、韋姑娘を愛してはいないのですか?」
 胸に浮かんだ問いを、そのまま素直に口にした。
「そうではありませんね。わたしには、そうは見えませんでした」
「だから、何だというんです? 愛だけで、人は生きては行けない」
 激しい口調で云う若者に、本当にそうなのでしょうかと、小龍女は再度首をかしげる。
「愛する人と結ばれ、ともに暮らすこと。人の世に、それ以上の幸せはないと思いますが」
「世の中は、そんな甘いものじゃない! どなたかは知らないが、あなたは、何もわかってはおられない!」
「わかっていないのは、あなたです」
「なんですって?」
「女にとって、愛しても居ない男性に嫁ぐのが、どれほど辛く悲しいことか、あなたには分らないでしょう」
「そう云うあなたは、わかっていると仰る?」
 皮肉な口調で云ったのに、
「わかっています」
 てらいも気負いもなく、さらりと返されて口をつぐむ。
「もう、昔のことになりますが、わたしと夫が結婚したいと云った時、周りの人はみんな、反対しました。わたしと結婚すれば、夫は皆から軽蔑され、二人ともが不幸になるというのです。わたしは諦めるために、他の人に嫁ごうとしました。大きな過ちでした。幸い、あの子が  
「あの子?」
「夫のことです」
 さらりと云われ、易之は目をぱちくりとさせる。
 直後、音もなく部屋に入ってきた美丈夫に、目の前の佳人が「過児」と愛称で呼びかけるのに、今度は呆気に撮られた表情で固まってしまった。
「過児、韋姑娘は? 一緒ではないの?」
「龍児……」
 吐息めいた声音で妻の名を呼ぶと、楊過は真っ直ぐに周易之の目を見据え、
「一足遅かった」
 感情を交えぬ、冷淡な口調で云った。
「過児?」
「どういう……ことです?」
「真っ直ぐ走っていて、向こうの水路に  おい、どうする気だ!?」
 響鈴、響鈴と叫びながら、部屋を飛び出そうとした易之を、腕をつかんで引き止める。
「何をするんです!?」
「今さら追っても無駄だ」
 さらに冷淡な言葉に、そんな  と、若者はその場に座り込む。
「響鈴、響鈴。どうして……」
「死んでも、范家には嫁ぎたくなかったんだろうな。と云って、夫と決めた男には邪険にされるし  
「響鈴……」
「纏足の足でも、本気になると案外速いもんだな。あっと思ったときには  
「何を、他人事のように!」
 きっ  と顔を上げた若者に、他人事だと楊過は冷ややかなな口調で云い捨てる。
「あんたにも、そうじゃなかったのか?」
「え?」
「縁は切れた。そう云ったはずだな」
「そんなの、本心じゃない! 決まってるじゃないですか!! 見て下さい、この家。借財を払うため、あるだけの家具調度は売り払った。残ったわずかばかりのものは、使用人に持ち逃げされた。今じゃ、爺やと二人、食べて行くのもやっとです。響鈴に  愛する女性に、こんな暮らしがさせられますか!? それに  
「それに、妻の実家の財産を当てにしていると云われたくない意地もあった……か。つまらない意地を張ったもんだ」
「そうです。そうですよ! でも、こんなことなら!」
「こんなことなら?」
「誰になんと言われても、あの子を妻にするんだった」
「そのお言葉、嘘じゃありませんね」
「この期に及んで、誰が嘘なんか…………!?」
 云いかけた易之の言葉が途中で止まり、その双眸が、裂けんばかりに大きく瞠られる。
 視線の先、涙にぬれた顔に満面の笑みをたたえて、少女が立っていた。
「きょ……響鈴?」
「従兄さま、嬉しい!!」
 抱きつかれ、瞬間、易之は戸惑った様子を見せたが、すぐに優しい笑みを浮かべて、許婚の背に腕を回す。
 それを微笑ましいものに眺めてからら、
「いけない人ね」
 小龍女は、策士の夫を軽く睨む。
 楊過のことだから必ず仕掛けがあるとは思っていたが、それにしても、若者の本音を引き出すために、こんな手を使うとは  
「俺が性悪なのは、昔から。お前も知ってるだろ?」
「いいえ。わたしは、あなたはこの世で一番の善人だと思っていたのだけれど」
「本性が知れて、がっかりしたかい?」
 そうね  と、小龍女は向こうで自分達の世界に浸っている若い一対にチラリと視線を向けて、考えるふりをする。
「あの二人のためにしたことですもの。やっぱりあなたは、この世で一番の善人よ」
「そんなことを云ってくれるのは、うちの奥様だけだよ」
「まあ! それにしても、あなたにもわかったのね」
「ああ。絶情谷で、あなたなんか知らないといった、あのときのお前と同じ眼をしてた」
 それにしてもと、楊過は軽く笑声を洩らす。
「手間のかかる男だ。おかげで、ほら」
 同時に、荒々しく扉が蹴り開けられ、どこぞの屋敷者らしい、薄茶のお仕着せの集団がなだれ込んでくる。中央の、腹の突き出た丸顔の初老の男は、
「鈴児!!」
 少女を呼んだところからすると、父親らしい。
 その背後から覗いた見覚えのある顔は、先ほどの范家の息子。楊過の顔を認めて、びくっ、と顔を引きつらせたのが少し笑えた。
 龍児  と、楊過は妻を顧みる。
「丁度良い。この連中を婚礼の立会人にしよう」
 なにやら、楽しげな口調で云った。



 夢のようね。
 切ない憧れと共にこの言葉を聞いた、その同じ夜に、同じ言葉を自分が口にしようとは、それこそ、まさに夢のようだった。
 平服のままだったのが少し残念だったが、わたくしたちはその場で、あのお二人と、闖入してきた父と范家の面々の前で祝言を挙げた。
 正直、范家との縁組の思惑が外れ、苦虫を噛み潰したような顔の父さまの前で婚礼の誓いをかわすのが痛快だったことは、否定しない。
 その足で夫と爺やとともに生まれ育った街を離れ、江南へ向かい、頼ってゆくといいといわれた陳某と云う人の口から、あのお二人が江湖に名を轟かせた神鵰大侠と、その奥様だということを聞いた。
 その陳某の世話で小さな商いをはじめ、ほどなく子供も授かり  それは、決して楽しいことばかりの歳月ではなかったけれど、范家の九番目の妻などになった自分を想像すれば、大概のことには耐えられた。
 そうして、気がつけば何十年かが過ぎ、世は宋から元に変わり、わたくしたちも孫を抱く年齢になっていた。
 それでも、世は変わり、眺める人は河っても、元宵節の賑わいは変わらない。
 そうして、ともすれば、祭りの喧騒に中に、あのお二人の姿を探している自分に気付く。
 氷雪の化身か、人界に天下った女仙かと思えるほどの白衣の佳人と、その夫である黒衣の隻腕の美丈夫。
 あの夜の、わたくしの憧憬の全てをを結晶させたかのようだった、幸福そうな二人の姿を……。

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Comment

 

今回の美味し話も
お見事でした!
!(b^ー°)


今の、季節にピッタリでしたし、楊龍夫婦を巻き込んだ?(この表現はあってるのかな)自分達の境遇みたいな若い二人を夫婦にしようとする
作戦に
『楊龍夫婦らしいなぁ~(^w^)』と思ってしまいました。


それと、この時代は親の言うことは絶対であり、自分の思想を簡単に口に出来ない悲しい(ノ_・。)時代だったのですね…
「今の世みたいに自由が効く時代じゃなかったのはね」と切なくなりました。

実は…私も去年から書きかけの二次小説がありまして、去年
UPした「春風~約束の旅」の続きなんですが、もう少しで完成しそうなんですよね。
ても、reiさんの素晴らしい作品の後にUPするのは、何か恥ずかしいな…(//△//)
  • posted by 由香 
  • URL 
  • 2011.01/08 19:36分 
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  • [Res]

由香さんへ 

早速のコメント、ありがとうございます。

実はですね~
12月の中頃は別の話を書いてたんですが、完成しないうちに年が明けちゃったので、
季節感、季節感と、急遽、書きかけで放置してあった別話を引っ張り出してきたわけなのです。
で、タイトルからわかるように、実はもっとしっとりした話になる予定だったのですが……
ヒロイン(?)は、名前が決まった途端に、急に予定してた以上に活発になるし、
(なんせ、「目指せ、卓文君ですからね~(^▽^;)
楊過は易之を説得する手間を惜しんで、ああいうことをやってくれるし(^▽^;)
(自害したらどうすると脅す予定だったのが、まさか、いきなり「飛び込んじゃった」とやらかすとは……)

つくづく、物語ってのは生きものです(苦笑)

>それと、この時代は親の言うことは絶対であり、自分の思想を簡単に口に出来ない悲しい(ノ_・。)時代だったのですね…

はい。
時代考証のお勉強をかねて、中国の歴史の本を読んでたら、特に、この宋代から明代あたりで、親や目上の云うことは絶対と云う宗族制度や礼法が厳しくなっていったらしく、特に女性には生きにくい時代だったようです。

なので、楊過は時代に対する反逆児でもあるのですね、多分。

>UPした「春風~約束の旅」の続きなんですが、もう少しで完成しそうなんですよね。

お! それは(^_^)
楽しみにしてます。頑張って~ (^^)/~~~
  • posted by rei★azumi 
  • URL 
  • 2011.01/09 08:38分 
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毎度、面白く、感心しながら読みました!

楊過と小龍女のお話のように見えて、
人助け武侠モノの王道を行っている、
という感じでしょうか。

卓文君のお話とかも、さり気無く織り込んでいたり、
お見事!

>「俺が、お前の願いを聞かなかったことがあるかい?」
これ、ほんとそうですよね~。
reiさんの作品中では特に、優しい過児ですよね!

ところで、この詩はreiさんの作ですか?
いや~才能ある人は何でも凄いな~!
  • posted by 阿吉 
  • URL 
  • 2011.01/11 18:50分 
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  • [Res]

阿吉さんへ 

過分なお言葉、ありがとうございます。
(でも、嬉しい\(^o^)/)

この話、そもそもはヒロイン(ですかね、一応)の響鈴の独白部分がポッと思い浮かんだことから始まったので、これは、この展開しかないな~と云う感じだったんですが、
でも、最初は、2人に式だけ挙げさせて、こっそり逃がしてやる予定だったんですよ。
それが、こういう結末(^▽^;)
つくづく、物語は生きものというか、キャラの性格の左右されるものというか(~_~;)

>reiさんの作品中では特に、優しい過児ですよね!
いやぁ、優しいというか、甘いというか……(^^ゞ

>ところで、この詩はreiさんの作ですか?
いえ、いえ、とんでもない。
作者は忘れましたが、以前に読んだ本からの引用です。
うっかりしてましたが、作者名もメモっとくべきでしたね(^^;ゞ
  • posted by rei★azumi 
  • URL 
  • 2011.01/11 20:03分 
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rei★azumi

Author:rei★azumi
ヒト属ネコ科 コタツ猫亜種 読書ネコ
『神鵰侠侶』で金庸にハマった、金庸初心者。
とりあえず、金庸の小説全作品読破を目指すも、突如神鵰侠侶二次小説にハマる。
さて、この先、どうなりますことやら。

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