神鵰侠侶二次小説  黒白 (後編)

前編より


「どうした、阿飛?」
 楚家から半里あまり。幾たびも邸を振り返りながら道を辿る少年に、楊過は問いかける。そういえば、最初に董氏の顔を見たときから、何やら様子がおかしかったが  

 はっとしたように楊過の顔を見上げると、少年はしばし、とまどったように視線をさまよわせ、
「なんでもない。ただ、あの女……」
 ヤバいよと、地面を見ながら小声で云った。
「あの夫人  董氏を知ってるのか?」
「知らねえ! 知るわけねえだろ、あんな女!!」
 思いもかけない  いや、むしろ、この少年なら当然だろう激しい口調の返答に、楊過と趙三哥は、瞬間、顔を見合わせ、傍らの阿樹が、怯んだように半歩引いた。
 一呼吸の後、そうかと、楊過は視線を和ませて、少年の肩に手を置く。わずかに身をかがめて、目の高さをあわせた。
「あの女が油断ならないのはわかってる。だからお前をつけたんだ。いいか。昨日も云ったが、あの家で出される食い物は、一切口にするな。外で買ってきて食べるんだ」
「そんなの無理だよ。絶対バレちまう」
「誰が、こっそりやれと云った?」
 僅かに笑いを含んだ口調と表情で  と云っても端からは、面具から覗く双眸の光で、僅かにそう窺えるだけなのだが  云う楊過に、
「そういうことか!」
 阿飛は、大人びた表情を見せてニヤリとする。
 渡された銭包の中を確かめて、
「やったぜ、阿樹! 買い食いのし放題だ」
 饅頭だろ、粽だろ、油酥(クッキー)に糕に……知る限りの菓子の名前を並べ立てるあたり、食べ物でいきなり元気を取り戻すあたりは、まだまだ子供である。
 騒ぎすぎて、神鵰にうるさいと云う感じで声を上げられ、びくっと首をすくめるのに失笑しながら、阿樹と、もう一人の少年に声をかける。
「大丈夫だな?」
「はい」
 少し硬い表情で、しかし懸命な面持ちで頷くのに、微笑して、
「もう、戻れ」
 楊過は云う。
「うん」
「はい」
 それじゃと、阿樹の手を引っ張って、阿飛が戻って行くのを眺めながら、俺はね  先に口を開いたのは、趙三哥の方だった。
「俺はね、神鵰侠。士太夫だの読書人だのってのは、どうにも信用できないし好きじゃない。そんな連中が、性悪女に引っかかって尻の毛までむしられようが、家を乗っ取られようが、知ったこっちゃない。そう思ってます」
 けどねと、実際には気の良い江湖者は、蒼天を行く雲に視線を向ける。
「阿樹って云いましたね、あの坊主のお袋だけは、無事でいてくれりゃいいなって思いますよ」
「そうだな」
 低く答えて、楊過は少年立ちの去った方へ視線を向ける。どこかの邸の塀の影、慌てて顔を引っ込める貧しげな身なりの女が、残像のように視界に残った。
 あの女、確かさっきも  
「どうかしましたか?」
「いや。それより、董と云う女の素性」
「心得てます」
 渡されたいくばくかの銀を芝居がかって押し頂くと、趙三哥は健康のほうへと走り去る。
 それを見送り、神鵰を促して、楊過は南へ。臨安へ向かったと見せかけ、一応は董氏たちの目を誤魔化しておく必要があった。


 そうして  
 事態が動いたのは、それから三日後の夜。
 董氏が、食器を載せた盆を手に、少年達の部屋へ入ってきてからである。
 二郎さんと呼びかけられ、阿樹は落ち着かなげに身じろぎをする。排行で呼ばれるのに慣れないのは無論だが、初めて会ったときから、この女性の何もかもが、阿樹の感性に馴染まなかった。
 特にこの、作ったような甘ったるい笑みと口調。実の母は無論、上品で控えめだった先夫人の梁氏とも全く違う。父さまは、どうしてこんな人を好きになったのだろう。
 父さまが亡くなるとすぐに、爺や婆やを始め、古くから居る使用人を皆入れ替えてしまい、母さままで追い出してしまった。おまけに、神鵰侠の考えによると、この人は  
「二郎さん、核桃酪(胡桃汁粉)を作らせましたよ。好きだったでしょ」
「いりません」
 硬い表情で答える。
「どうして、何も食べないの? 口に合わないのなら、そう云えば厨房に云って作り直させるのに」
 云って董氏は卓の上を眺める。こんな屋台の饅頭や餅をと、美しく描いた眉をひそめた。
「あの……」
 返答に困って口ごもる阿樹の代わり、
「おっかなくて食えねぇからだよ」
 横合いから阿飛が口を出す。 
「誰かさんみたいに、毒を盛られて殺されちゃ堪らねぇからよ」
「阿飛!」
 思わず声を上げ、董氏の顔に目を向けて、びくりとする。
 美しいことだけは認めなくてはなるまいと思っていた継母の顔が、驚くほどに変わっていたのである。
 美しく弧を描いていた眉は攣り上がり、眉根は険しく寄せられ、眉間には深いしわが刻まれている。見開かれた両眼は異様な光を湛え、
    鬼……。
 瞬間、悪鬼の表情になった董氏は、口許に歪んだ笑みを浮かべると、そう  と、低く呟いた。
「そう。そういうこと……。ちょっと、あんた」
 扉の外に呼びかける。呼ばれて入って来た従兄と称する男、馬壮に、
「食べさせてやっておくれ」
 顎をしゃくった。
「何すんだ!?」
 立ちふさがろうとする阿飛を馬壮は無造作に捕らえ、壁に向けて突き飛ばす。
 頭をぶつけ、わっと声を上げてそのまま倒れこんだ少年に、
「阿飛!」
 駆け寄ろうとした阿樹の襟首を捕らえ、椅子に押さえつけた。
「やっぱり、毒入りかよ」
 床に転がったまま、二人を睨みつける阿飛に、ふんと董氏は鼻を鳴らしてみせる。
「大人しく食べてりゃ、怖い思いをせずに済んだのに」
「父さまにも、こうしたんだね?」
「存外聡いね。あの人はもっと人が良くてね、疑いもせずに、あっさりあの世へ行ったけどね」
「閻魔の前で、そう聞かされれて、どんな顔をしたやら、だな」
 そうだねと、姦婦姦夫はうすら笑って顔を見合わせる。
「どっちにしても、もう手遅れさ。ほら。大人しく食べるんだよ」
 董氏の白い手が散り蓮華を取り上げ、馬壮の太い指が阿樹の口をこじ開けようとする。
 刹那、風が流れた。
 ふわりとした、存外柔らかい。
 しかしそれは、董氏の手から椀を叩き落とし、続けて、部屋の明かりを一斉に消し去る。
 訪れる、一瞬の暗黒。
 そうして  
 部屋を青白く染め上げた月光の中、
 黒影がひとつ、ゆらりと立ち上がった。
「やはり、そうだったのか」
 影は僅かに面を伏せたまま、陰々とした声を上げる。
 月の光が、その乱れ髪の影の、土気色の死相を浮かび上がらせた。
「あ……相公あなた?」
 驚愕の声を上げる董氏には答えず、
「財産が欲しさにこの家に入り込み、時期を見て毒を盛った。それだけでは足らずに、幼いこの子まで殺そうとするのか」
 黒影は一切の感情を含まぬ低い声音で、淡々と董氏の罪状を糾弾する。
「あ……」
「丁氏は、このこの母親はどうした? いくら探しても、見つからない。やはり、殺したのか?」
「あ……、あ……、あ……」
 董氏は言葉を発することも出来ず、ただ、あ……、あ……を繰り返し、がくがくと膝を慄わせる。
 その傍ら、
 うッ! と鈍い呻き声に続き、何やら苦しげにもがく気配がする。
 逃げ出そうとした馬壮が、何かで動きを止められたらしい。
 丁氏をどうした。再度の問いに、
「に……逃げられたんだよ!」
 やけっぱちの大声を張り上げた。
「あ……あんた!?」
「逃げられたんだ。 どこにいるかは、分らねえ!」
「あんた! 始末したって云ったじゃないか!?」
「ただ始末したんじゃ勿体無えから、揚州まで連れていって、売り飛ばそうとしたんだよ! それが、あのアマ、途中で  
「そうか」
 声に、僅かに生色が混じる。
 瞬間、かすかに音。
 ふわり、と光るものが流れ、さっきの光景を逆転したように、部屋の明かりが一斉に灯る。
 続けて発せられた驚愕の声は、誰の喉から洩れたものだったか。
 亡霊がいたはずの場所に立っていたのは、やはり土気色の異相だが、明らかに生きた人間  神鵰侠・楊過である。
 さらに、
「聞いたな?」
 楊過の声に応えて部屋に入ってきたのは、趙三哥ともうひとり、
「母さま!」
「阿樹! 阿樹!!」
 しっかりと抱き合う母子に穏やかなまなざしを向けてから、
「亭主の声も分らないとはな」
 その視線を董氏に振りかえ、楊過は嘆息する。
「そういう人です。この人が見ていたのは、この家の財産だけ。そうして、旦那様は、そんなことにも気付かない人でした」
 妙に冷ややかな丁氏の言葉に、僅かに目を瞠った。
 その間に趙三哥は、壁際に転がったままの阿飛を助け起こし、額の傷を見てやっている。
 楊過が先日見かけた女は、やはり丁氏で、楚文政亡き後、家を追い出され、馬壮の手で妓楼に売られそうになった丁氏は、隙を見て逃亡。息子が気がかりで邸の近くまで戻ったが、邸から息子の姿が消えているのを知り、健康城外の救護院に隠れて、ずっと様子を伺っていたのだという。
 この時代、大きな城市の外には、生活困窮者や行き倒れた旅人などを収容する、そういった施設が設けられていたのである。
 それで  と、楊過は、抱き合ったままの母子を顧みる。
「この二人をどうする? 役人に引き渡すか、それとも  
「それは……」
 母子は判断に迷った様子で顔を見合わせる。
 この家の主人を殺害した犯人なのだから、それが本当なのだろうが、司直の手が入るとなると、何かと厄介なことが多い。
 と  
「殺しちまえよ」
 やや高い、鋭い声が、その場の空気を裂いた。
「あ……、阿飛?」
 思わずといった感で声を上げ、まじまじと顔を眺める阿樹に、殺せよと少年は繰り返す。
「殺しちまえよ、父親の仇だろ。お前も、お前の母ちゃんも酷い目に合わせたやつだ」
「だって。だって、この人も母さまだよ」
「母親なもんか。自分の息子の顔も忘れた母親、生きてる値打ちなんかないぜ」
「阿飛?」
「おまえ?」
「母親だって?」
 それぞれの驚きの声と視線、さらには趙三哥の手を払いのけ、少年は董氏の前に歩み寄る。忘れたのかよ。真っ直ぐにその目を見据えて云った。
「あんたが捨てていった、葉十郎の息子の飛だよ。あんたの息子だよ。
 いいや、忘れるよな。貧乏がイヤだって、父ちゃんと、まだ五つの俺を置いて出て行ったあんただもんな。
 でも、俺は忘れない。忘れてない。その目の脇の二つ並んだほくろも、左手の甲の火傷の痕も!」
 あっ……と、董氏は声を上げ、袖で左の手を覆う。手の甲には阿飛の云う通り、古い火傷の痕があった。
 さらに少年は衿元に手を突っ込み、金色の鎖  長命鎖を取り出してみせる。引きちぎろうとして力が及ばず、チッといらだたしげに舌打ちをした。
 その鎖を外し、錠前を象った部分に刻まれた誕辰とを楊過は読み上げる。
「あ……阿飛、坊や、おまえ……、あたし  
「畜生! いっそ、忘れちまってりゃよかったよ」
 こんな女が母ちゃんだなんて、情けなくて涙も出ないぜ。吐き捨てるように云う少年に、
「阿飛……」
 董氏は、ただ呆然とその名を口にする。
 ひどく重い空気が、その場を支配していた。
 


「こんな偶然もあるもんなんですねぇ」
 ひどく感慨深げに趙三哥がそう口にしたのは、一切が片付いた後の健康の酒楼の二階。それとも、これが天意と云うものかという馴染みの江湖者に、いいやと楊過はかぶりを振る。聞けば、阿飛の生まれ育ったのも、この健康の近く。ならば、そういう偶然もあるのだろう。
 息子に否定されたことより、三日もともに暮らしながら、我が子を我が子と気付けなかったことの衝撃の方が大きかったのだろう。ふ抜けのようになってしまった董氏は、男とともに放逐された。再び悪事を働くにせよ、正道に立ち戻るにせよ、その人生の軌道が再び楚家の母子と、そして阿飛と交わることはないだろう。
 阿飛がそのまま、楚家で養育されることになったのがせめてもだが、あの少年の気性が、果たしてそれを潔しとするものかどうか。が、それはすでに、楊過たちとはかかわりのない話である。
「母親ってのも様々なんですね」
 呟くように繰り返す趙三哥に頷いて、楊過は盃を重ねる。甘いはずの黄酒が、妙に舌に苦かった。
「俺のところも貧乏だったけど、親父もお袋も、一生懸命俺たちを育ててくれました。自分が食べる分を削っても、俺たちには、ちゃんと食わせてくれた。それなのに  
「ああ」
 本等に母親ってのも様々なんですねぇ。酔ったらしく、何度も繰り返す趙三哥に頷いてやりながら、楊過は、これまでの放浪の中で見てきた母親と云うものに思いを致す。子供を捨てる親。暮らしのために子供を売る親。子供のためだけに生きる親。そうし  
「思い出した」
 呟きともいえぬ呟きに、眼前の男が、え? と怪訝な声を上げる。
 それに、いや  と低く応えると、楊過は盃に視線を落とした。
 あれは  
「過児、お父様が欲しい?」
 あるとき、不意に母に聞かれた、あれはいくつのときだったろう。
 欲しい  と即答したはずだ。あの頃の楊過は、自分を可愛がってくれる父親が欲しくて仕方なかった。
 今思えばそれは、亡き父を慕うものではなく、単に自分を守り慈しんでくれる、父性と云うものへの憧れだったのかも知れないが。
 同じ頃、可愛がってくれた男がいた。楊過自身も懐いていた。あるいは、その頃、母は再婚を考えていたのだろうか。貧苦にやつれてはいても、子供の目から見ても充分以上に美しい母だった。
 それが、ある日、
「あなたのお父様は、亡くなった、あのお父様だけ。お父様なんて欲しがらないで。お母様がその分も愛してあげるから」
 そう云った母の胸中に、何が起こり、そして何が終ったのか、今の楊過には知る術がない。ただ、息が苦しくなるほどにきつく抱きしめられた、そのことばかりが記憶の片隅に残っていたようである。
 楚家の夫人達はいずれも、夫である当主を真実愛してはいなかったらしい。
 が……
   母さん。母さんは父さんを愛してたのか? たとえ、それがどんな人でも。
 盃の、琥珀の酒に母の面影を浮かべて問いかけてみる。
 そんな楊過に、
   神鵰侠?
 趙三哥は、訝しげな視線を向ける。
 その性、奔放にして不羈。進退もまた風の如く。事件が終ったあと、こうして酒を酌み交わすことさえ珍しい男の  密かに畏敬の念を寄せる大侠の口許に、滅多に見られぬ柔らかな微笑が浮かんでいたためである。


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コメント

阿樹の母親を追い出し父親を殺したのは、阿飛を捨てた母親だったとは…
いやぁ~驚きの結末でした。

そして、楊過の心の中に存在する女性は小龍女の事だけではなく母親、穆棯慈の事も存在しているという、心の中を表現した部分は素晴らしかったです

お見事でした!(b^ー°)

由香さんへ

>いやぁ~驚きの結末でした。
あれ? そうですか?
阿飛が母親に捨てられたというのは、前編でちょこちょこ伏線を敷いてたし、
そうなると、因果応報的にこう絡んでくるのは、小説としては割りと普通だと思うんですが。
(というか、こういう具合に絡ませなかったら、少年は阿飛か阿樹のどちらかひとりだけでいいんですもん、と、創作の考え方などをチラリ(笑)

>楊過の心の中に存在する女性は小龍女の事だけではなく
それは、男の子にとっては、母親は特別ですから。
と云うわけで、普段は小龍女の占める比重が大きいんだけれど、
何かの折には、ぽっかりと母親のことも浮かび上がってくる、
と云う話にして見ました。

ともあれ、感想&お褒めの言葉、ありがとうございました。

素晴らしいです!

思わずホロリと来そうでした(ノ_・。)

確か、多情剣客無情剣にも阿飛って名前が出てきた気がします
阿飛に不良、チンピラの意味があるのには驚きました!
勉強になります!

次回作も楽しみに待ってます(^^)
(プレッシャーですいません(^^;)

ぬまぬまさんへ

過分のお言葉、ありがとうございます m(_ _)mペコ

>確か、多情剣客無情剣にも阿飛って名前が出てきた気がします
はい。準主人公って役どころで、思い切り私好みのキャラでしたv-238

>阿飛に不良、チンピラの意味があるのには驚きました!
これ、中日辞典だったかな、字引の「阿」の欄に載っていて、私もビックリ。で、いつか使ってやろうと思っていたのです(^m^)

>次回作も楽しみに待ってます(^^)
>(プレッシャーですいません(^^;)
が……頑張ります(^▽^;)
(ネタはあるんですが、ボキャの神様の降臨が間遠で……(~_~;)

よいですねぇ!
穆姐さんの登場に「お!?」と引き込まれました。
そして、ラストの穆姐さんとの思い出も綺麗~!
穆姐さんだったらそういうだろうなって思います。

神侠侶の二次小説じゃなくて、単独でも充分通用しそうなお話ですね。
もちろん、楊過が登場するから、生きてくる部分もあるんですが…。
二次小説にしておくの、勿体ないような気がしますよ。

ふく*たま さんへ

ありがとうございます。
そもそもは、冒頭の穆姐さんとのシーンが、ふと頭に浮かんだのが発端で、じゃあ、これに相応しそうな話は……と、ネタを探し続けた結果が、こうなりました。

ちなみに、ラストシーンは書いてる最中に浮かんだ~と云うことで、
こういうところも、やはり物語は生きものだと思わせられます。

>二次小説にしておくの、勿体ないような気がしますよ。

ありがとうございます。
そうなるとまた、別の展開、別の結末になりそうですが(笑)

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