秋水長天

 遊子帰客 夢断故郷雲水之間    西風古道 回首一片秋水長天

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五月闇   ―弐-

            第一章  雨 (承前)


 雨戸を一枚繰って外へ出ると、そこには広大な庭が広がっている。いずれは名のある古刹こさつだったのだろう。庭に設けられた築山が、泉水にかけられた石橋が、繁るにまかせられた木々が、梅雨のあわいの白くにごった夜空に黒々と浮かび上がった。
 後ろ手に雨戸を閉め、素足で地を踏むと、信二郎は庭の中ほどに身を置いた。
 築山の後から、木々の間から――黒影がにじむように湧き出してくる。
「おっ!」
 と、声を上げた者がいるところを見ると、昼間の生き残りであろう。
「奇特なことだ」
 黒影が肉薄するにまかせて、うっそりと佇んだまま、信二郎は口許に冷笑を刷いた。
「折角拾った命、わざわざ捨てに舞い戻るとは……」
 まだ、刀の柄に手を置いてもいない。
「場所も寺。他の面々も、無縁仏となる覚悟は決めておいでと見える」
「おのれ、素浪人。云わせておけば!」
 指揮者の下知も待たず、一人が抜刀する。
 夜の庭に出て、ふと放心している――そんな風情で佇む痩身そうしんの孤影へ、影が一つはしった。
 信二郎は、上体をわずかにひねって、それをかわした――かに見えた。
 会心の一撃を外され、たたらをふんだかに見えた侍が、ひくい呻き声を上げた。
 徐々に前のめりになり、がっくりとその場にくずおれた時には、信二郎は数歩を下がった位置で静かに佇んでいる。右手には、いつ抜き放ったものか、血塗られた白刃が握られていた。
「ひとつ、聞いておこう」
 命を抜け出させた骸に視線を向けたまま、信二郎は静かに言葉をつむいだ。
「幼い姫の命を縮めんとする、その理由」
「主命」
「主命……?」
 蔑みきった冷笑が、くっきりと片頬に刻まれている。夜闇の中で、それがはっきりと見て取れる口調であった。
「下らぬ」
「黙れ!」
 おめいて斬りかかったのが、擦りあがった刃に左腰から右脇近くまでを切断され、血の霧を撒いて倒れる。
 そのまま、ツツ……とはしった信二郎は、横合いから斬りかかった一太刀に空を斬らせ、反対側の侍の胴を存分に薙いでおいて、泉水にかかった石橋を背に取った。
 さらに二人。
 向かってきた相手に、一合もあわせることを許さず、血煙をあげさせている。
 瞬く間に五人までを倒された討手の側に、動揺の色が広がっていった。
 舞の手に似て、流れるように優美な、しかし神速の太刀筋。血染めの刀を下段に構えた静止相を、討手の侍たちはあるいは化生のものと見たかも知れぬ。
「な…何をしておる!? 斬れ!!」
 包囲の輪の中ほどいた男が、狂的な声を張り上げた。
「相手は一人ぞ。取り囲んで討ち取れ!!」
 痩せた、狐顔の小男であった。
 一人だけ、刀を抜いておらず、たすきをかけてもいない。
 一行の指揮者と見えた。
 命じられ、意を決したように――
 あるいは、刃を返した信二郎の動きに誘われたかのように――
 包囲陣から、ひとりが進み出た。
 するすると、一足一刀――すなわち、一歩踏み込めば刀の届く間境に迫る。その間に、構えを中段から上段に移行させていた。
 そのまま、一気に間境を越え、刃を打ち下ろそうとしたとき――
 ふっ……と、相手の位置がずれたように見えた。
 錯覚――と。
 あるいは、しまったとほぞを噛んだやも知れぬ。
 一瞬の戸惑いが、そのまま隙になった。
 空いた胴に、すうっと音もなく、信二郎の摺りあげた刃が吸い込まれてゆく。
 弧を描いた刃の一瞬の残影が、山の端に消え残った月に似てしろい。
 名付けて――
「弦昇流。残月の位と見た」
 野太い声が云った。
 また一人、進み出る。
 顔も、体つきも四角い。武骨、剛直といった言葉を、そのまま人にしたような男。
「真庭念流、田崎新八」
 名乗って上段に構える。
 先ほどの六人とは、格段の差であった。
 礼として名乗りを返すべき信二郎の方は、唇を引き結んだまま、冴えたまなざしを新たな敵に当てている。
「名乗らぬか!」
 吼える田崎に、
「狗に聞かせる名は持たぬ」
 冷然と云い放った。
 一息に六名を倒して、気息に一筋の乱れもない。
「狗……狗と!?」
「主命の名のもと、理非もなく獲物を狩りたてる。狗と呼ばずして、何と呼ぼう」
「黙れ!!」
 振り下ろす刃と、摺り上げる刃と――
 二本の白刃が白い軌道を描いて交錯した。
 ふたつの影が位置を入れ替える。
「……………」
「………」
 その一瞬で、田崎はたすきにした刀の下げ緒を断ち切られており、信二郎もまた、右の袂を半ば切り裂かれていた。
「いや…………」
 ふっ………と、信二郎の冷たく冴えた白皙に、蔑みきった笑みが刷かれる。
「――飼い犬にも、今少しの気概はあろう」
「!」
 白昼であったなら、田崎新八の顔が怒気に赤く染まるのが見えたことであろう。
 逆上した田崎の刃が、信二郎のそれと火花を散らして噛み合った――刹那、刃は悲鳴を上げて中ほどから折れ飛んだ。
 飛び下がり、憤然として折れ刀を投げ捨てる。
 脇差しに手をかけたとき、耳元で轟音が炸裂した。
 刹那、
 左肩に凄まじい衝撃を受けた信二郎は、ぐらっと状上体をよろめかせながら、かろうじて踏みとどまった。左の腕を、赤い小蛇のように、血潮が伝い流れる。
 雨戸の影から、何かを叫びながら走り出ようとする奈津を、
「来るなッ!」
 一喝するのと、
「曽根殿っ!」
 田崎新八が、上司に非難の声を上げるのが、同時であった。
 硝煙を噴く短銃を構えたままの狐顔の上司に向けられた田崎の目は、怒りに燃えている。
 飛び道具を使った卑怯を責めている次第ではない。強いて言葉にすれば、牙を立てようとした獲物を奪われかけた野獣の怒りであった。
「田崎。何をしておる。斬れ! 奴は手負いだ。他の者も、取り囲んで――いや……」
 ちらりと、残忍な表情が、狐を思わせる顔に浮かぶ。
 銃の撃鉄を起こすと、肩を押さえてがくりと膝をついてしまった信二郎の方へ歩いてゆく。
 ゆっくりと、勝ち誇った態度で、銃を突きつけようとして――
「あっ!」
 右手に走った衝撃に、理由もわからずに、曽根は声を上げていた。
 銃が、手から離れて彼方へ飛び、
 何をどうされたのか――
 血塗れた白刃を首筋に押し当てられて、曽根は身をふるわせた。
「動くな!」
 鋭い一喝が、刺客陣の動きを凍らせる。
「卑怯…………」
「――と云われて、怯む廉恥心れんちしんは持ち合わせぬ。……どうされる?」
「ど……どう、とは?」
 首筋に当てられた刃が、青年の口調に似て、ひどく冷たい。
「主命とやらを果たすために、命を投げ出す覚悟はついておいでか、ということだ」
 言葉に皮肉な棘を含ませて、信二郎は云った。ただしその棘、鋼で出来ている。
「な…………」
 ごく浅く、動かされた刃が、首筋の皮膚を傷つける。
 生ぬるい液体が、着物の内側に流れ込む感触に、文字通り曽根は戦慄した。拒否すればこの男、曽根の首をあっさり掻き切るだろう。
「せ……拙者に、何をせよと云う?」
 簡単なことだ――と、信二郎の口調は、あくまでも冷ややかである。
「夜が明けるまでの間、配下の面々を、この寺から立ち退かせていただきたい」
「…………………わかった」
 人の命を奪い、あるいは人に命を掛けさせることはなんとも思わぬ男でも、やはり己の命は惜しいと見える。
 退けと震え声を張る曽根の姿に、皮肉な思いをおぼえた信二郎は、口許の冷笑とは対象的に、眸のかげりをさらに濃いものにした。
 討手が一人残らず立ち去ったのを見届けると、曽根の後頭部を刀の柄で打って失神させる。
 刀を鞘に納めようとして――
 肩に走った激痛に、信二郎は唇から洩れようとする呻きを噛み殺した。
 気のゆるみとともに、傷の痛みが、ようやく意識に上ってこようとしている。
 雨戸を開けて、奈津が飛び出してくるのが見えた。
 その姿が、すうっと遠退きかける。
「結城さまっ!」
 奈津が裾を乱して走り寄って来る。
 信二郎の片袖が蘇芳すおうの色に泌みはじめているのに気付くと、小さく悲鳴をあげ、自分の襦袢の袖を引き裂いた。必死の面持ちで傷を縛りはじめる。
 たわわな黒髪。白いうなじ。そして震える肩が目の前にあった。
 ――細い肩だ………。
 雨に打たれる紫陽花に似た。
 見下ろした娘の姿に、信二郎はふと思った。
 その肩を濡らして、再び細かな雨が降りはじめている。



「はい」と答えたのは、夢の中だった。
 その、自分の声で美緒は目覚めた。
 蒲団の上に起き上がり、
「兄さま?」
 辺りを見回す。
 すぐに、莫迦ばかね――と自嘲の笑みが浮かんだ。
 兄が――信二郎がここにいるはずがない。
 奇妙に寝苦しく、ようやくうとうととまどろんだと思ったあげくの夢。目覚めた瞬間、内容は忘れてしまっている。それでも、名を呼んだところからすると、兄に関する夢だったのだろう。
 竜泉寺の離れの自分の部屋。三年前、実の子同様に愛してくれた養父を失って、助手として叔父の偐斎の元に迎えられてから、美緒はこの部屋で起き伏しをしている。
 衣装箪笥、文机、何冊もの書籍、近頃ではくこともなくなった琴に針箱、鏡台。闇の中にぼんやりと、部屋の調度が影となって浮かび上がっている。枕元には、畳んだ衣類が乱れ箱に収めて置かれている。
 闇の色は濃い。夜明けまで、まだ随分と間があるようだった。
 軒を打つ雨音に耳をすます。
 さほど強くはない。単調な、眠りの妨げにならぬ程度の音。
 ――結局、強がりを云っても、気になることはなるのですわね。
 ひとりごちると、衣類の上に置いた鈴を手に取る。
 付け替えたばかりの真新しい紅の緒が、鋭利な刃物を使ったように、ふっつりと断ち切れていた。
 理由もなく――
 夜更けて、もう休もうかと立ち上がった時に、不意に切れたのだった。
 瞬間、体中の血が引いていくような感覚があった。
 一拍置いて、兄の身への異変を予測していた自分に気付く。
 ――莫迦な……。
 元々が、金と銀とのふたつで一対の品。信二郎は銀、美緒は金と、幼い時に引き離された兄妹が、偶然分けて持つことになったものであったが、ともに肌身から放したことはなかった。
 だからといって、これが兄の身に起こった異変を知らせてくれたものとは限らない。
 もしそうだったら、大笑いしてやりますわと、強がって見せたのは、かえって信じたくなかったからかもしれない。
 偶然と自分に言い聞かせ、どうしたんだと怪訝な顔を見せる叔父には、
「こんなこともあるんですわね」
 強いて笑顔を作って、紐の切れ口を見せた。
「美緒坊。明日は、休んでもいいぜ」
 鈴と美緒の顔を交互に見比べ、難しい顔をしていた偐斎げんさいが、不意に云った。
 幼い頃可愛がってくれていたときの口調そのままで、この叔父は、とうに二十歳を過ぎた姪を、未だに『美緒坊』と呼ぶ。伝法な口調も、その頃のままだった。
「叔父さま?」
「信の字――信二郎のことだろ? 探しに行ってきなよ。誰か一人っくらいは、居場所を知ってる奴がいるだろうぜ」
「でも、叔父さま――」
 こんなことは偶然だろうし、わたくしは兄様のことは心配なんかしていない。云いつのる美緒に、偐斎は笑うと、
「向こうは訳があって素っ気無いふりをしてるんだろうが、おめえまで真似をするこたぁねえんだぜ」
 姪の強がりなど、とうにお見通しという様子で云った。
 そうかもしれないと美緒は思う。
 せっかく叔父が云ってくれているのだ。明日は兄を探しに行ってみよう。
 行って、何事もなければそれでいい。何かが起こっていたら――それは美緒にとっては手助けの仕様のないことだろうが、それでも、座して不安に耐えているよりはずっといい。
 ざあっと、激しさを増した雨音が身を包む。
 ――結局、眠れそうにもありませんわね。
 体を横たえながら、美緒はひとりごちた。



 ――美緒……と、
 呼んだのは、夢であったのか、うつつであったのか……。
 はいと答えが返った気がした。
 目をあけると、白い顔がそこにあった。
 理知的な、しかし華やかな印象のする妹のそれではない。
 美しくはあるが、対照的に寂しげな、雨に打たれるうす紫の紫陽花を思わせる――
「奈津……殿」
「お目覚めでございますか」
 娘は、ひっそりとした笑みを見せた。
 かたわらでは人形のような童女が健康な寝息を立てている。何の夢を見ているのか、かすかに笑みを浮かべているのが、夜目の利く信二郎には見て取れた。
「この姫も、安らげるのは夢の中だけなのであろうか……」
 ふと口にしてしまって、苦笑する。
 雨音が、小川の流れと水車の音に混じって聞こえてくる。雨足が強いようであった。
「お体は?」
 奈津が訊く。
「少し……楽になったようだ」
 ひくく、信二郎は答えた。
 縛り上げた曽根を置き去りに荒れ寺を抜け出し、途中見つけたこの水車小屋に入った時点で、一刻、信二郎は喪神に似た眠りに落ちていた。
 曽根から受けた弾丸は、幸い貫通していたが、これは骨折と同じで熱が出る。傷口を焼きふさいで血を止める荒療治をしただけの肩は、激しい疼きを通り越して、感覚を失いつつある。楽になったと奈津には答えたが、依然、その体は高熱に苛まれていた。
 その患苦をおしての逃避行なのであった。
「そなたこそ」
「はい?」
「そなたこそ、体は大丈夫なのか?」
 奈津のほうも、右肩から腕にかけて手傷を負っている。幸い浅手であったし、熱も完全に引いているようだが、なんといってもか弱い女の身である。
 気遣われて、奈津は頬に淡く血をのぼらせた。
「はい。もう……。あの……」
 そうか……と、信二郎は目だけで笑みを返す。
「あの……、本当に、よろしいのでございますか?」
「…………?」
「あの、姫様の……。姫様のおために、お命をかけてくださること。本当によろしいのでございますか?」
 奈津の言葉に、何度同じことを言わせるのかと、信二郎は目元の笑みを深いものにした。
「もう、わたくし達のことは、ご放念くださいませ!」
 泣き叫ぶように奈津が云ったのは、曽根を縛り上げた信二郎が、庫裏くりに戻って頽折くずおれるように座り込んだ、その直後であった。
「そなた一人の命なら、それでもよいかも知れぬが……」
 傷の痛みに耐えながら、信二郎は言葉を返した。視線は、奈津の袂にすがりつき、怯えたように大きく目をみはった千代姫に向けられている。
「その、幼い命を守るのが、そなたの使命ではなかったのか」
「で……でも、あなた様に、お命をかけていただく理由がございませぬ!」
「姫が怯えている」
「信二郎さま!」
 呼び方が、いつの間にか結城様から、信二郎様に変わっている。
「…………理由は、ある」
 ひくく信二郎は答えた。
「誰のためでもない。わたしの――わたし自身の過去のため、そういうことだ」
 その青白く冴えた容子に、奈津はかえって言葉を失った。
「それに……おそらく、もう遅い」
「え?」
 言葉の意味を図りかねて、顔を見つめる。
「田崎新八と名乗った、あの男。今度会うたなら、決してわたしを逃すまい。仮に、そなたたちと別れていたとしても」
 狗と蔑んだ馬庭念流の使い手。互角か、あるいはそれ以上の腕と見た、それゆえに、相手の心気を乱すためにしたことであったが、武士が飼い犬以下とののしられたのだ。あの、剛直そのものの男は、その一言だけで、決して信二郎を許すまい。
 名誉を傷つけられれば、相手の死を持ってそれをそそぐ。そういう、奇妙なところだけが、まだ武士なのだと――信二郎はそれを皮肉なものに感じていた。
 千代姫と奈津を別室に追いやると、傷の手当にかかる。
 曽根から取り上げた洋式の銃が役に立った。
 薬莢から取り出した火薬を傷口にふりかけ、火をつける。
 こうした行為には慣れている。いまさら、呻き声のひとつ、立てるものではない。
「お手伝いを……」
 せめて包帯だけでも――と、入ってきた奈津が、あっと小さく声を上げた。
 肩肌脱ぎになった信二郎の、その左の肩口から心臓近くまで、真下に向けて凄まじい刀痕が走っている。
 それの丁度終わるところに刻印されたものに、気づいたためであった。
 刺青という名の、真紅の烙印。
 心臓の真上に、緋色のさそりが、生けるがごとく這っていた。
 驚かれたであろう――信二郎はうすくわらった。
「信二郎さま。それは!?」
蛇蝎だかつにも等しい無頼の素浪人には、いっそ相応しい飾り物であろうか……と」
 答える口調に、紛れも無い自虐の響きがあった。
 刺青は、市井の無頼ものがすると、聞いたことがあった。
 現在の北町奉行、遠山左衛門尉が、総身に桜吹雪の刺青を入れているという噂は、奈津も耳にしたことがあったし、当今では直参の次男、三男までが粋がって、こうしたもので肌をよごすと聞いたこともあった。
 この青年のそれは、そのいずれとも違うという気がした。
 胸から腹にかけて入れる細針を束ねたささら・・・が、大の男をして悲鳴を上げさせる苦痛を伴うことも、朱が最も肌を苦しめることも、もとより奈津の知識には無い。
 ただ、この刺青が自分の意思でなされたものならば、このようなもので肌をよごさねばならなかったこの青年の自虐の精神を、ひどく痛ましいものと奈津は感じていた。
 自らを無頼というが――
「わたくしは、信二郎さまをそのようなお方とは思うてはおりませぬ」
 その――信二郎は、水車小屋の壁に背をもたせかけ、刀を抱いた姿勢で目を閉じている。
 ひとつ、伺うてもよろしゅうございますか。奈津の問いに、
「なにか?」
 目を閉じたまま、信二郎は云った。
「美緒さまとは、どのような御方なのでございましょうか?」
「…………」
「うわごとで、呼んでおられました」
「妹」
 口許にうっすらと、自嘲の笑み。
「幼いときに、別れねばならなかった……。長じて、再会してからも、別れたときの幼い姿が、まな裏から消えぬ。……その姫と同じ――いや。今少し幼かったのか……」
「では、姫様をお救いくださいましたのは、そのためだったのでございますね」
「いや……」
 ふっと、信二郎は目を開いた。
 闇の中。まだ、雨音は続いている。
「かつてのわたしであったら、そなたたちの危難を見過ごして去ったであろう。そういう――人を信じぬ、獣のような生き方を……わたしはしてきた」
 いや。牙と爪を血に染めた、文字通りの一匹の野獣であった。
 けっして、自ら望んだ生き方ではなかったが。
 この青年が自らを他人に語るなど、奇跡に等しいことを、もとより奈津は知らぬ。
 ただ、ひくい声音でどこか物憂げに語られる語調を、なぜか心地よいものに感じていた。
「…………ひとり、この江戸に友と呼べる男がいる。手傷を負うて、空き屋敷と思うたその家の庭先に入り込んだのが友誼の始まりであった……。
 もの陰にひそんだわたしに呼びかけて、その男は手当てをさせようと云った。大名の子息――苦労知らずの男の、ただの気まぐれであったなら、受けなかったであろうが……月光に照らされたその顔が――彼は、盲目であったのだ。
 目が――と、不躾な問いをしたわたしに、見えぬ、と。同情を嫌う質の、虚勢であったのだが、その声音が、ひどく明るかった。
 理由も問わず、庭に紛れ込んだ非礼も咎めず、家人に手当てをさせてくれた。
 わたしが何ものかも、訊きもしなかった。
 彼にしてみれば、迷い込んだ野良犬に対したようなものであったろう。が――このような人間もいたのかと、その時思うた。路傍の地蔵尊に備える供物はあっても、飢えてそれを盗む子らに与える一片の餅、一口の飯もない。そんな、人の姿ばかりを見てきた。それが……無償の善意というものも、この世にはあるものかと……」
 語った後に続いた低い自嘲めいた笑い声は、そう感じたときの己に向けられたものか、それとも、らしくもない思い出話などを聞かせた行為そのものに対してだったろうか。
「眠っておいた方がよい。夜明けまで、まだ間があるようだ」
「…………はい」
 答えて、奈津も目を閉じる。
 闇の中に雨音。童女の寝息。川の流れ。水車の回る音。
 目を開けても闇。
 闇の中に黒く、壁際に座した青年の姿が影絵となって切り抜かれている。
 冷たいまでに整った容姿は、今は、奈津の眸の底だけにある。
 ――このまま、夜が明けなければよい。
 心の中で、奈津はそう念じていた。





                                       つづく
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rei★azumi

Author:rei★azumi
ヒト属ネコ科 コタツ猫亜種 読書ネコ
『神鵰侠侶』で金庸にハマった、金庸初心者。
とりあえず、金庸の小説全作品読破を目指すも、突如神鵰侠侶二次小説にハマる。
さて、この先、どうなりますことやら。

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