五月闇  -肆-

             第二章  想い (承前)




 ――このまま、あの方におすがりしていて良いのだろうか。
 馬喰町の旅籠、蔦屋。訳知り顔の駕籠屋が案内してくれた宿屋の一室で、奈津はもの思いに沈んでいた。
「嬢ちゃんはこちらで見ててあげますからね。ゆっくりとおやすみなさいな」
 二十代後半から四十台まで、奈津などには年齢の見当がつきかねる美貌の女将が云って、親切に床をとってくれたのは、当の女将の私室らしい。適度に片付けられ、適度に散らかった、居心地の良さそうな部屋だが、千代姫と、そして信二郎と離れていることが、奈津をひどく落ち着かない気持ちにさせていた。
 帯を解き、床に入ってはみたが、どうにも眠る気にはなれない。
 ――あの方は、ただの行きずりの方。
 床に半身を起こしたまま、おのれに云い聞かせるように呟いていみる。
 ――あの方は……。
「あのお人は死んだ亭主の古い知り合い。それでもって、ちょっとの間、うちの用心棒をしてもらったことがあるんですよ。それだけの仲」
 信二郎のことを、そう軽い口調で云った女将の、武家には見られぬ粋な美しさも、何やら奈津の心をさわさわと波立たせている。
 ――あの方は、ただの行きずりの方。姫様のお身柄が定まれば、お別れせねばならぬお方。いつまでも甘えていて良い方ではない。
 奈津に課せられた使命からすれば、信二郎の厚意を利用し、たとえ命を失わせることになろうと、千代姫を守るべきなのであろうが。
 それでも、それが正しいこととは、どうしても奈津には思えない。
 ――いいえ。そうではない。あの方だから。
 相模殿橋で先にと告げられたとき、どうしても言葉に従うことができなかった。
 おそらくははじめて、自分の意思で選んだ行動に、信二郎は少し驚いたように奈津の顔をみつめ、そうして、ごく淡く微笑った。
 なにか愛しい、ひどく儚いものをみるような眼で、
「こんな素浪人の命ひとつ、見捨ててくれてよかったことだ」
 そう云った。
 ――武蔵屋へ行こう。
 考えているうちに、決意が定まった。
 武蔵屋へ行って、そのあとのことは奈津にもわからない。命じられるままに動いてきた身は、そのようなことは考えたことすらない。ただ一つ、分っているのは、もう信二郎とは会えなくなる。そのことだけであった。
 ――あの人は、ただの行きずりのお人。
 自分に云い聞かせる。わたくしのことなど、なんとも思ってはおられないのだから、と。
 女将に頼んで、駕籠を呼んでもらおう。
 意を決すると、身なりを整えて立ち上がる。
 様子を見に来たのだろう。ふすまを開けた女将が、まあと驚きの声を上げた。




            第三章  錯綜さくそう



 昼過ぎから降り出した雨は、しとしとと、止む気配も見せずに、降り続いている。
 時折雨足が強くなり、また、小降りになる。
 そんな具合で、終日降り続きそうであった。
 その中を――
「あれ? 美緒先生じゃないか。ちょっと、美緒先生!」
 かたわらを知らぬげに通り過ぎようとし紫蛇の目に、仙太郎は声を張った。
「あら。仙太郎さん……」
 傘の下の白い貌が微笑む。
「御免なさい。少し、考え事をしていました」
「往診?」
「いえ。本所の帰りです」
 と、美緒が云うときは、本所の青柳喬之介の住まいを指す。
 これは、仙太郎たちも同様である。が、
「向島だぜ。ここは」
 本所から美緒の住む浅草へ、大川を渡るべき橋は、とうに通り過ぎている。よほど、その考え事に気を取られていたようだと想い、
「考え事って、何?」
 仙太郎は訊いてみる。
「ええ、ちょっと、気になることがありましたの。それより仙太郎さんは、こんなところで何を?」
「うん。あれをね」
 道の向こう、大店の寮らしい家の裏口から、人目をはばかるように運び出されようとする棺桶を目顔で示す。
「雨の日の葬式ってのは、辛気臭くていけねぇや。まして、ああいうのは。あの仏さん、誰だと思う?」
「さあ? わたくしは、仙太郎さんと違って、噂話に意は疎いので。誰ですの?」
「『武蔵屋』のおたきさん。旦那の姉さんでね」
「……ただの亡くなり方ではありませんわね」
 当主の姉の亡骸を、人目に立たぬように運び出そうとするなど。云う美緒に、
「さすが、鋭い」
「ほめても、何も出ませんわよ」
「分ってますって。表向きは、急な病死ってことだけど、本当は、こう、短刀でのどをぶっつり――」
「御自害――」
「うん」
 武蔵屋の先代のひとり娘、おたきは、十五のとき、大店の娘の慣例として、備中大槻家の江戸屋敷に行儀見習いの奉公に出された。嫁入り前の箔付けのはずであったが、目端の利く利発な娘であったため、先君の奥方に気に入られ、一生奉公の誓紙を出した。爾来じらい三十年、今では奥の束ねを仰せつかり、
「名前も滝川さまっつって、押しも押されもしねえ御老女さまだったんだが――」
 それが突然、自害して果てた。
「ずいぶん詳しいのですね、仙太郎さんは」
「そいつがおいらの撮り得だもの――と云いたいんだけれど」
 情報収集を特技とする若者は、役者絵から抜け出したようなと形容される美貌を、ニヤリと歪めて見せた。
「今の旦那の娘が、菊ちゃんの稽古けいこ仲間。つまり、おっかさんの弟子ってわけ」
 菊ちゃんこと、田原町の口入屋『山城屋』の跡取り娘のお菊と、大川沿いの料亭『八尾菊』の末息子で、卯之ちゃんこと卯之吉は、仙太郎の幼馴染である。
 ことにお菊は、仙太郎の母、お吉の長唄の弟子で、どちらが自分の家かというくらいに、お吉の家に入り浸っている。
「お澄ちゃんって云うのが、その娘の名前なんだけど、よく自慢してたんだ。お大名の御老女さまが伯母さんだって。で、その自慢の伯母さんが急な病だってんで、引き取りに云ったら死骸で返された。おまけに、喉に刃物の痕がある。
 納得できねえってんて、隠居した大旦那、つまり滝川さまのお父っつぁんが、大槻さまのお屋敷へ飛んでいった。ところが――」
「お大名らしいやり方ですわね。門前払いでしょう」
「わかるかえ?」
「無論です。門前払いの口上も当ててあげましょうか。滝川は殿中を血で汚した不届き者。本来なら死骸を取り捨てるべきところを、病として下げ渡したは当方の慈悲――とでも」
「さすが……」
「何ですの?」
「物云いの辛辣なところなんぞ、さすがは兄妹だと思って。結城の旦那によく似てらぁ」
「まあ! では、もう一つ、兄の云いそうな台詞を云ってあげましょうか」
「何だえ?」
「仙太郎さんの食指が動いている以上、それだけではないのでしょう?」
「かなわねぇなあ、美緒先生には。昨日の夕方、百本杭に御殿女中の土左衛門が引っかかっただろう?」
 いや。正確には水死体ではない。なぜなら、その仏は一滴の水も飲んではいなかったのだから。そのかわり――
「惨い有様だったそうですわね」
 お菊に引っ張られて現場に行ったものの、美緒は死体を見てはいない。亡骸のあまりの惨さに気分を悪くしたお菊と卯之吉を送って、一足先に帰っている。
「うん。両の手首に縄で縛った痕があって、体中アザやら打ち身やら。足の骨なんざ、ぐさぐさに砕けて……」
「拷問――石を抱かされたのですね」
 さすがに女医だけあって、仙太郎の生々しい描写にも顔色ひとつ変えるわけではないが、表情はさすがに苦いものを飲んだ後のそれに変わっている。
「そのお女中が、滝川さま付きのお腰元だった――としたら?」
「臭いますわね」
「だろ?」
「でも、仙太郎さん……」
 そんなことを、どこで調べたのかと云う美緒に、若者は、内緒と笑った。
「で、菊ちゃんが、もうちっと詳しいことが判らないかと、あの寮へ手伝いに―― あ!」
「仙太郎さん?」
「あの女!!」
 目立たぬ位置から家の様子を探っているらしいお高祖頭巾の女に、仙太郎は見覚えがあった。昨日、御殿女中の水死体が上がったとき、野次馬の群から一人離れて様子を見ていた女だったのである。
 武家の女らしい物腰と、まなじりの切れ上がったきつい容貌。それに、何ごとかを思いつめたような表情が、仙太郎の中に強烈な印象として残っている。
「美緒先生。伝言頼む。菊ちゃんに、先に帰ってろって」
 傘を放り出し、女の方へ、たたっと数歩踏み出す。
 若者の様子に気付いて、女は身をひるがえした。
 後を追って走り出す若者の後姿を目で追いながら、
「忙しい人……」
 口の中で呟くと美緒は、その忙しい若者の伝言をお菊に伝えるべく、武蔵屋の寮の勝手口へと向かった。




「旦那。結城さん、起きて下さいよ」
 結城信二郎が、お蔦――蔦屋の女将の低いが切迫した声音に、浅い眠りを破られたのは、丁度その頃であった。
「武蔵屋の迎えが来てるんですよ。それも、旦那みずから」
「!」
 身を起こした信二郎の顔がわずかに歪んだのは、傷の痛みのためばかりではない。
「あの娘――奈津殿が、武蔵屋に知らせた……か」
「あの娘さん――」
 云いかけて、ついと目をそらすと、
「あいすみません。勝手をして。どうしてもって頼まれちまって」
 女将は済まなそうに頭を下げる。
「いや、いい。それで?」
「それが、娘さん、一緒じゃないんですよ。あの娘さんの気性で、自分で嬢ちゃんを迎えに来ないなんぞ、変だと思って外を見てみたら、このあたりじゃ見かけない浅葱あさぎ裏がうろうろ」
「なるほど……」
 低く云うと、すっと外に面した障子に寄る。蔦屋に身を寄せるときは大抵ここへ通される二階の一間。細く障子を開けてうかがえば、店の軒近くに寄せられた駕籠。供の姿。そして、そこここに散在する侍姿は――
 ――そういうことか……。
 武蔵屋を訪ねた奈津の朋輩ほうばいが戻らぬ理由も、これで納得ができた。姫たちが隠れた古寺が襲われた理由も。
「子供は?」
「おいちが相手をして、裏で遊んでるはずですよ」
「頼みがある」
 早口に囁かれた言葉に、お蔦は一瞬目を見張ると、すぐに表情を厳しいものにして、旦那は? と問うた。
 武蔵屋が裏切っていたのか、ただ見張られていただけなのかは知らぬ。が、少なくとも今の信二郎に、童女を連れてこの場を切り抜ける体力は失われている。
「時間を稼ぐ」
 短い言葉に、わかりましたと旧知の――白金の隠居の縁者でもある女将の反応は早い。いたずらに理由を問わぬのも、いつものことである。
大商人おおあきんどだか何だか知らないけど、みょうにいけ好かない奴でしてね。店先にうっちゃってあるんですよ」
 あでやかな笑みを見せると、先に立って階段を下りてゆく。
 言葉通り、階下に待っていたのは渋い色合いの豪奢な絹物をまとった四十代半ばほどの大柄な男であった。目鼻立ち、押し出しは立派なのだが、目の配り、ちょっとした表情の動きに、何やら小動物――強いて例えれば鼠――を連想させるものが見受けられる。
 狡猾こうかつさ、注意深さの類いであれば、商人として、あながち悪徳とは云えまいが、義侠心、あるいは義理で幼い姫を匿うだけの度量の人物とは見受けられなかった。
「これは、お奈津さまの云っておられたご浪人さんですな。手前、武蔵屋徳兵衛と申します。大層……その、お世話になられましたとか」
 慇懃いんぎんな態度で挨拶をしながら、落ち着かなげな視線が、店のそこここをさまよう。
「おいちは遅いねぇ。小さい嬢さんの支度をさせるように、云い付けてあるんだけど。ちょいと見てきましょうねぇ」
 いざとなれば驚くほど度胸の据わるお蔦が、平然と、しかしにこやかに云うと、奥へ入ってゆく。
 それから、それほども立たぬうちに、
「旦那さま!」
 店に駆け込んできた手代らしき男が、慌しく主人の耳元に何か囁いた。
 なんだと――低く呻いた武蔵屋は、信二郎の顔に視線を射込むようにした。
「女将さんが戻りなさるには、少しばかり時間がかかりそうだ。先にお前様だけでもおいでいただけませんかな。このたびのお礼も申し上げたいし、何より、お奈津さまがお待ちになっておられますんでね」
 並みの者なら気死しそうな殺意の籠もった視線には気付かぬふり。常野素っ気無い口調で返答を返すと、信二郎はその身を駕籠に移した。



 江戸で屈指の豪商の住まいは、大名屋敷にも匹敵する豪奢な構えを誇っていた。種々の銘木を植え、回遊式に作り上げた庭園は、五万石以上の格式の大名家を真似たものであろうが、時代が時代なら、これだけで闕書けっしょにもなりかねぬものである。
 分を超えた振る舞いと、白無垢を着た上方の豪商が闕書にされ、銘香をたきながら将軍のお成り行列を見物した商人の一家が遠島にされた時代は、はるかに遠い。
 絹物が禁じられれば、それよりはるかに高価な唐桟とうざんを身につける。音曲が禁止されれば、それ以上の派手な遊びを思いつく。経済力も、世の中を動かす力も、武士の手を離れ、こうした豪商の手に移って久しい。
 気概。侠気と呼ぶものさえ。
 通された、これも贅を尽くした茶室の、茶釜の松籟しょうらいの音と、庭の松ヶ枝を打つ雨音を訊きながら、信二郎は思う。
 武士の時代の終焉しゅうえんが近いのだと、これはかつて、喬之介も口にしたことである。
 彼の知る幾人かの町人も、昨今の武士では及びもつかぬ見識と人格の持ち主であった。が――
「武蔵屋の旦那でございますか? そりゃあ、先代は立派なものでございましががねえ……」
 白金の隠居――人の世の裏表を知り尽くした老人の言葉を思い出す。
 奈津の上司が幼い姫を託そうとしている人物は、狡猾という言葉を人型に固め、商人の前掛けをかけさせたような――ということになるらしい。
 その狡猾な商人は、無言で茶席の亭主の座に着いた。無言のまま手前をはじめる。
 おそらくは、奇妙な形で事件に紛れ込んだ胡乱うろんな浪人者を観察しているのであろう。
 定められた『かたち』から一歩もはみ出さぬ手前のあと、差し出された青磁の夏茶碗を、信二郎は片手で取った。作法と知らぬと断って、そのまま一息に干す。
 半ば、偽りであった。
 飲み方の心得くらいはある。
 左肩の深傷ふかでを悟らせぬためがひとつ。
 人としての武蔵屋の器量を見定めるのが、いまひとつの目的であった。
 豪商の顔に、微かなさげすみの色を認めながら、茶碗を戻す。
 ご相伴をと挨拶をして、武蔵屋は自身も一服を喫した。
「どこにやられました?」
 茶碗に湯を注ぎながら、訊いた。故意に、姫という言葉を略している。
「云えぬな」
 信二郎の言葉に、豪商の眉がピクリと引きつった。
「ここまで来て、そういうことを仰る。手前が信用できぬということですかな」
 答えは返されなかった。
 両手を膝に、静かに端座した青年が、肩の痛手と高熱に堪えていることなど、武蔵屋にはうかがい知るべくもない。ただ、彼の目から見れば、まだ若造と呼ぶべき年頃のこの浪人の超然とした態度を、ひどく小面憎く、そして、一抹気味悪く思うばかりである。
 そうして、不安はどうやら、人を饒舌じょうぜつにするらしい。
「お聞き及びのことと存じますが、このたびのことを目論みましたお奈津さまの上司、滝川。手前の姉でございます」
 いささか早口に、武蔵屋は言葉をつむぐ。
「手前に文を寄越したあと、姉はお殿様をおいさめするため、喉をついて自害をいたしました。姫様をお救い申し上げるのは、いわば姉の遺言。姫様をおむかえ申し――」
「大名家と一戦交える……か」
 低い、どちらかと云えば穏やかな口調の、しかし白刃の鋭さをもった言葉であった。
 滅相なと、喉もとに秋霜を突きつけられたように、武蔵屋は身を慄わせた。
「恐ろしいことを仰せになる」
「………………」
 対するのは、研ぎ澄まされた名刀に似た鋭く冷たい笑み。
「藩の借財は、いかほどある」
「ざっと――」
 云いかけて、
「それを盾に、藩政を動かせとでも仰せになる?」
 さあな――と、ごく静かな韜晦とうかいがかえってきた。
 この時代、武士の生活は困窮を極め、大名旗本で出入りの商人、札差等に借金をしていたいものは皆無といえた。
 上方の豪商など、参勤交代の大名が自ら店先に立ち寄り、「なにとぞよろしく頼む」と頭を下げたという逸話さえ残している。金の力に物を云わせ、大名、公家の息女を妾にしたという話も、あながち作り話とは云えまい。
 その気になりさえすれば、武蔵屋が千代姫を買い取ることも可能――そう示唆しさされたと、武蔵屋は取ったようである。
 手前には思いも及ばぬことでございますと、軽く頭を振る。
 ふっ――と、信二郎は吐息とも取れるわらいを洩らした。
「商人は勝ち目のない戦はせぬと聞いた。利のない商いはせぬ、ともな」
「あなた様こそ、行きずりのお方が、何故そのように姫様にこだわられます? そちらさまこそ、これ以上姫様に関わられても、何の利もございますまい」
「………………」
「姫さまをお世話か下さったお方。当方としても、相応のお礼の用意もございます。それとも――しかるべき御家に、仕官のお話なども――」
「猿芝居も、そこまでにしたらどうだ?」
「何のことで? それより姫様を――」
「否――と答えれば……」
 襖の向こうで、気配が動くのを察知する。
「用心棒が躍り出てくるという仕掛けか。それとも大槻家の家中が――」
 商人の表情に、おのれの言葉が当っていたことを確かめると、背後に置いた差し料に手を伸ばす。立ち上がろうとして――
「――!」
 信二郎は膝からくずおれた。
「貴様……」
 呻くと、片手を突いて踏みとどまる。
 同時に、全ての襖が引き開けられた。
 たすき掛け、白刃を抜き連ねた侍が茶室におどり込む。
 田崎の姿が、先頭にあった。



                                      つづく
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まとめ【五月闇  −肆−】

             第二章  想い (承前)