五月闇  -漆-

       第四章   黒白こくびゃく(承前)




「奈津が……死んだか」
 曽根の報告に、江戸留守居役、佐伯主馬は、そう低くつぶやくと瞑目めいもくした。
 行灯あんどんの灯に照らされた横顔は、しわ深く、一気に十も年を取ったかに見えた。
 一目あの方に――そう云われた時に、こうなることはわかっていた。そんな気がする。気がするが――
 不意に、双眼をかっと見開く。
「お殿様は間違うておられます」
 そう叫んだ娘の声が、耳裏によみがえったのである。
 ――わかっておる。そのようなこと、そなたに云われずとも。誰よりも。
 だが――。
『君、君たらずとも、臣、臣たるべし』
 自分とて、その一義のみを、かたくなに守り続けているわけではない。
 藩が――家が大事なのであった。
 藩を潰さぬため、延いては数百の家臣とその家族を路頭に迷わせぬためには、黙って藩主の言葉に従うしかない。
 ――どうすることもできぬのじゃ、儂には。
「どうすることも、の」
「は?」
 思わず口から出た言葉に、曽根が不審の声を上げる。
「いや。それで、例の浪人者、どうしておる?」
「は。引き続き責めさせておりますが、どうにも――」
「口を割らぬか」
「は。何ゆえ手負い。先日の袖のように度を越して責めさせ、殺してしまっては元も子もないと、係りのものが申しますゆえ」
 どうしてもある程度の手加減はやむを得ないと、曽根の口調は言い訳がましい。
「その手負いの身で、田崎に傷を負わせたか」
「は」
「何ものであろうかの、その男?」
 ――幇間ほうかんの真似ごとばかりが、士道ではあるまい。
 奈津にそう告げたという浪人に対する興味が、不意に佐伯の胸に起こった。
「田崎の報告では、滝川殺害のからくりを見抜いておったらしいとのことで」
 喉に突き傷があるからといって、自害とは限らぬ。そう、武蔵屋に向かって云ったという。
 二人がかりで滝川を押さえつけ、喉を突いて自害と見せかけた、その仕掛けまでは、さすがに看破してはおらぬようだが。
「そうと聞かせられた武蔵屋め、怯えきってしまいまして――」
「もはや、使い物にならぬか」
 苦く、主馬は嗤う。
 用が済んだら処分する予定のコマ。その時期が、少しばかり早まるだけのことである。
 それより、その浪人――
「引見してみるか、そ奴」
 立ち上がった背へ、
「佐伯様、奈津の死骸、いかがいたしましょうか?」
 おもねるような口調で、曽根が訊ねた。
「いずこへなりと取り捨てい!」
 苦いものを吐き出すように告げ、吟味部屋に向かって歩き出した佐伯の顔は、一切の感情を押し隠した、冷厳な武士のものに戻っていた。




 獄舎に近づいた佐伯の耳に、水の音が聞こえた。拷問に意識を失った囚人に浴びせているのであろう。
「まだ吐かぬようじゃの」
 入り口に立って云うと、吟味に当っていた武士の一人が頭を下げた。
「いまだ、一言も」
「云わぬか」
 その武士たちを下がらせ、二人きりになると、屈みこんで、若い浪人の目を覗き込むようにする。
 氷めいた、ひどく冷たい視線が、見返してきた。
「ようも……」
 云いたいこと、訊いてみたいことが、山ほどあった気がする。それなのに、その瞬間、佐伯の口を突いて出たのは、
「ようも、わが娘をたぶらかしてくれたものじゃ」
 その言葉であった。
 青年の表情に、ごくわずかな変化があらわれる。
「さよう。奈津じゃ。奈津は、儂の娘であった」
「…………」
「従順な、一度として、この父の云いつけに背いたことなどなかった娘を、ようも……その方が殺したも同然じゃ」
 理不尽な云い条に、信二郎は吐息めいた微かなわらいを洩らした。
 従順な娘と、この武士は云う。人形のような、何事も父の言いなりになる娘と、信じて疑わなかったのであろう。そしてこの人物は最後まで、我が娘の芯の強さと、内に秘めた激しさを――魂の形を見極めることは出来なかった。
 武家の歪んだ価値観に縛られぬ、健やかな心のありようをも。
さげすむか!?」
 その嗤いが、佐伯の内心の憤りをかきたてる。
「その方ごときに、何がわかる! 藩の――」
「…わかりたくもない……」
 ようやく、信二郎が言葉を発した。
 肩の傷に折れ弓を付きいれられ、傷口を破られ、新たな出血が始まっている。
 幾たびとなく、気を失うまで打ち据えられた背も肩も、熱を持ってうずいている。
 こうして、言葉を交わしていることさえ苦痛なはずであった。
 が、佐伯の双眸を受け止める目は、驚くほど静かな意志に満ちている。
「何ゆえ…そうまでして、幼女一人の命を奪わねばならぬ……」
「殿のご意志じゃ」
「それだけ、か」
 下らぬ、とも、愚かな、とも――
 言外の呟きが聞こえるようであった。
「その方ごときに、何がわかる!」
 低く、呻くように繰り返す。
 これまで双肩に負って来た藩の重み、藩士たちの生活の重み。
 素浪人一人に、何ほどのことがわかろう。
 好々爺然とした留守居役の胸に、ある残忍な考えが浮かんだ。
 どうせ、生かして屋敷を出す気などない。ならば、この青年に真実を聞かせてやったら、そのような顔をすることだろうか。
「あの姫は、殿の――大槻のお血筋ではないのじゃ」




「少なくとも、お殿様は、そう信じておられます」
 大槻おおつき家奥仕え、八重と名乗った娘がようやく話を始めたのは、部屋に置かれていた千代姫の守り袋を見、その幼い姫が、この屋敷に保護されていると聞かせられてからであった。
 現在、部屋には喬之介と仙太郎、美緒、そして上月老人だけが座っている。
 卯之吉とお菊は――ことは大名家の内情に関わる事がら。聞けば命の保証はないかもしれぬと、上月老人が脅して無理やりに帰らせたのである。
 備中庭瀬藩主、大槻和泉守は、名君という呼び名からは程遠い人物であった。それどころか、一国のあるじには、とうてい相応しからぬ人物のようでもあった。
 藩主の世継ぎとして大切に、甘やかされて育った人物にありがちな我がままな気性。気弱なくせに生来疳癖かんぺきが強く、欲しいと思ったものは何でも手に入れねば気が済まぬ。そんな性格であった。
 これまでも国許では、行列を横切った子供を無礼討ちにしたり、些細な罪で腰元を手討ちにしたりしたことなど、数知れぬという。
 そんな藩主の行動を助長したのが、幼時からの側近達。ことに曽根十五郎。そして、藩の不祥事が公儀の耳に入ることを恐れ、ひたすら尻拭いに終始した重臣たちであった。
 そうして、その和泉守の行状の中でも最大の醜聞は、千代姫の生母を側室に迎えたことであった。
 千代姫の生母、おこうの方は、元は家中の士の妻女だった。
 藩でも一・二といわれた評判の美女に目をつけた藩主が、無理やりに召し上げたとも、観月の宴を口実に、側近の何某かが、その女を殿の目にとまるように仕向けたのだとも云う。
 夫であった武士は、妻と引き換えに二百石の加増を受けた。
「殿様のご命令とあれば、家臣には抗うすべはございませぬ。上役、親戚がこぞって、妻女を差し出すようにと説得、ついには脅迫まがいの真似までをして夫婦を引き裂いた挙げ句、わずかな加増に、出世のために妻女を差し出した、武士にあるまじきものよと陰口を利き――」
 それでも実直に勤めを果たしていたその武士は、あるとき、奥庭の池に死体となって浮かんだ。表向きは事故とされているが、実は藩主の命令で密かに謀殺されたのだという噂が囁かれている。
 そうまでして手に入れた側室を、和泉守は溺愛した。
 ただし、お幸の方との間に生まれた一人娘である千代姫には、全く関心を示さなかったらしい。
 微禄の夫を見捨てて、栄華に乗り換えた不祥の女。先夫の死を聞いても、顔色ひとつ変えなかった、鬼か蛇のような女と影で囁かれながらも、お幸の方も、幸福そうですらあった。
 表向きは、平穏な日々が続いているように見えた。
 その平穏に、不吉な影がさしはじめた。
 千代姫の出生に関する噂であった。
 姫の父は、実はお幸の方の先夫。しかも、お幸の方が和泉守に召し上げられた後も、忍び逢っていたというのである。
 大名家においては、政治の場、藩主の生活の場である“表”と、妻妾たちの住まいである奥向きとは、厳然と区別されている。奥向きは女だけの世界であり、屋敷の主である大名でさえ、あらかじめ申し入れをした上、定められた刻限までにお錠口を越えていなければ、奥に入ることは叶わぬのであった。そのような場所で――
「それも、奥仕えの腰元、百歩譲って老女の類いならいざ知らず、側室が密通など、信じられぬ」
 云う上月老人に、
「手引きしたものがあるのです」
 八重は能面のように冷たい表情を見せた。
 この女子、気に入らぬと、一徹な老武士は顔をしかめる。
 醜女しこめが心ばええで美しく見えるという話を耳にしたことがある。この女は、まるで逆。整った顔立ちをしているのに、面談していると、何やら不快な気持ちになってくる。
 その老人の表情を、意に介した様子もなく、八重は話を続ける。
 お幸の方の密通の噂は、いつしか和泉守の耳にも達していたらしい。
 一夜、和泉守は側の者を遠ざけ、お幸の方一人だけを酒の席に侍らせた。そして、その場で愛妾を手討ちにしたのである。
 主に呼ばれ、遠ざけられていた侍女たちが駆けつけた時には、血の海と化した座敷の中では、すでに息絶えたお幸の方の姿と、血に染まった脇差しを手にした和泉守、そして、なぜか千代姫の姿があった。
 幼い姫は、泣きもせず、ただじいっと父の顔を見つめていたという。
 その日から、姫は一言も口を利かず、泣きも笑いもしない子供になった。
 その幼子を、次第に疎む様子を見せた和泉守が、抹殺命令を出したのは、それから間もなくのことであった。
 狂気のように、藩政改革に乗り出したのも、同じ頃である。
 ともかくも、主君の意を受けて、千代姫抹殺に、藩が動き出した。
 最初は密かに。やがて、公然と。
 お幸の方の密通、まして、姫が和泉守の子でないなど有り得ないとして、理不尽に消されようとした幼い命を守ろうと下のは、お年寄りの滝川と、そのわずかな腹心たちであった。
「それらのもので、なんとか姫様をお守りしてまいりましたが、お屋敷の中にあっては、それとても限度がございます。まして、お殿様の命が下ったとなれば」
 臣たるものには、それがいかなる理不尽であっても、逆らうことは許されない。
 滝川の考えたのは、姫を屋敷の外へ出すことであった。
 代参の行列に交えて屋敷の外に出した姫を、滝川の実家である武蔵屋に預ける。
 大槻家は武蔵屋に多額の借財があった。大名家とはいえ、滅多に手出しの出来るはずは無いと考えられた。
「ところが、その企てが洩れていたのでございます。
 わたくしと今一人、奈津と申す腰元との二人で、なんとか姫様を屋敷の外へお逃がしもうしあげましたが。途中見つけました廃寺へ姫さま方を残し、訪ねようとした武蔵屋で、曽根十五郎が入ってゆく姿を見かけ、わたくし、武蔵屋が裏切っていたことを知りました。
 滝川さま付きの腰元、お袖殿が無残な姿となって大川に上がるのも見ました。
 ご実家に戻された滝川さまのむくろが、密かに葬られるのも。
 戻りました廃寺には、もう、姫さまとお奈津殿の姿もなく、途方にくれておりましたところ、偶然にも、こちらで姫様をお預かりくださっていた由――」
 云いかけた言葉を、
「いけません。これ、そっちは――」
 若い娘の声がさえぎった。
 ぱたぱたと小さな足音が聞こえ、さっと襖が開けられる。
 座敷に入ってこようとした童女が立ちすくむのと、八重があっと声を上げ、腰を浮かすのが同時であった。
「申し訳ございませぬ。どうやら、美緒姉さまのお姿を探して――」
 云いかけた千草が、怪訝そうに八重の顔を眺める。
 一瞬見せた狼狽を恥じたように、八重は毅然きぜんと居住まいを正し、童女が怯えた目になって後退りをする。
「どうしました?」
 優しく云って美緒が抱き取ると、幼い姫は、いやいやとかぶりを振り、胸に顔を埋めた。
 八重が柳眉を吊り上げ、唇を噛む。
 沈黙の満ちた座敷を、雨音が重く塗り込めた。




 五月闇さつきやみ――陰暦五月、雨夜の白黒あやめもわかたぬ闇を云う。
 その中に、喬之介は一人で座していた。
 話を終えた後、八重は別間に遠ざけられ、美緒も千代姫を抱いて千草の部屋へ行っている。仙太郎は家へ引き上げ、上月老人もまた、自室へ下がっていた。
 父親がわが娘を殺せと命じる。そして、家臣団が平然とそれを実行しようとする。その事実に、誰もが衝撃を受けているようだった。
 しかも姫は、わずかに五歳。満で云えば三歳か四歳。
 家のため――家名のために親が子に死を命じることは、武家ではさほど珍しくはない。が、五歳の童女。あまりに幼すぎる。
 腕に抱いた幼子の感触は、小さく柔らかく、そして、ひどくもろそうだった。
 掌に包み込んでみた小鳥と同じ。ほんの少し力をくわえれば、そのか弱い肉体から命をもぎ取ることは造作もない。
 それゆえに――
 ――あのような幼いものを――
 あまりにも非道。
 人の心を持つものなら、誰もがそう思うだろう。
 そして、あるじの命があれば、その幼い命を絶つ非道を、非道とも思わずにやってのけるのが、今の時代に武士と呼ばれる種族なのであった。
 友が――信二郎が、あの童女を守ろうとした心情の一端が、理解る気がする。
 夜半を過ぎて、雨足は一層激しさを増し、黙したまま座していると、部屋の中から胸の内までが、降り頻る雨音一色に染め上げられてゆく心地がした。
 ――無事でいるか、信二郎……。
 大槻家に――と、仙太郎は云った。美緒を思いやって、それ以上は口にしなかったが、おそらくは捕らえられている。そういうことなのだろう。
 こういう時は、自身で動くことの出来ぬのがもどかしい。
 初更――休むには、まだ早い時刻であった。
 と――
「ごめんくださいませ」
 奇麗な声がして、襖の開けられる気配があった。
 澄んだ鈴の音に、まあ、と呆れたような声が重なる。
 一旦部屋を出て行って、戻ってきて、ことことと何かをやっている気配がする。
 たしか、行灯の置いてあるあたり。
「美緒さん?」
「行灯の油が、切れていましたわ」
 云われて、ああ――と、喬之介は苦笑を浮かべた。
 光も闇も、白昼も暗夜も、今の喬之介には関係がない。
「さても目明きは不自由なもの――か」
 盲目の高名な学者の言葉を引用しての喬之介の揶揄やゆを、美緒は小さく笑うことで受け流した。
 急な明かりに驚いたのだろう。籠の中の目白が、チチ…と小さく声を上げた。
「このたびは――」
 と、喬之介の正面にきて美緒がいう。
「兄のことで、とんだご迷惑をおかけします。申し訳ございません」
 チリ……と、小さく鈴の音。深々と、美緒は頭を下げた――らしい。
「いや。信二郎は、わたしにとっても大切な――おそらくは、唯一の友ゆえ」
 そのお言葉を聞きましたら――と、美緒は笑う。
「兄が、どんな顔をいたしますやら」
 狷介けんかい孤高――実は、恐ろしく照れ屋なだけではないかと、美緒は兄の性格を分析している。
「姫は?」
「休みました。取り敢えずは、千草さんが付き添っていて下さいますわ」
 ところでと、美緒は云う。
「いつも思うのですけれど、喬之介さま、お一人のときは、何をしていらっしゃいますの?」
「考え事……かな」
 淡く、喬之介は笑う。
らちもないことを、あれこれと」
「例えば?」
「人の性状が、たやすくめられるものかどうか」
「喬之介さまは、いかがですの?」
「無理だな、わたしは。二十年、懸命に申し分のない世継ぎを演じてきたが、かぶっていた猫が剥がれたら、このざまだ」
 何かというと厄介ごと、危険なことに首を突っ込みたがる性癖を、
「酔狂が過ぎると、よく爺に叱られるのだが、どうやら、そういう性分に生まれついているのだから仕方がない」
 あっさりと云って、喬之介は笑っている。
 実際にこの青年は、可能な限りは自分で出て行ってしまうのだから、守り役の上月老人としては、頭の痛いことおびただしい。
「まして、誰かのように、のらりくらりと怠けて暮らしていた身が、急に勤勉になって、藩政改革に乗り出す――などという気には、わたしは、なれぬな」
「大槻和泉守様?」
「そう。あの御仁には、他にもふに落ちぬことが多い。美緒さんは、家臣にとっての名君とは、どのような人物だと思う?」
 問われて、さあ、と美緒は首をかしげる。
「喬之介さまが、そういう仰り方をなさる以上、わたくしや世の人々の考える名君像とは異なっている――ということはわかりますけれど」
「相変わらず、聡いな」
 皎歯こうしをちらりと覗かせると、
「家臣にとっての名君とは、極端な云い方をすれば、何もせぬ人物、と云うことになる」
「何も…しない?」
 予想もしていなかった答えに、美緒は軽く目をみはる。
「何もしない。政治まつりごとは家臣がやる。そのような仕組みになっている。藩主が口出しをする余地はない」
 二百年に近い年月をかけて、そのような仕組みが出来上がってしまっている。なまじ藩主が口を出せば、仕組みの歯車が狂う。家中に波風が立つ。家臣の中に死人も出る。波風の大きさによっては、藩そのものが取り潰されることになる。
 日常の暮らしも、これと同様。しきたりという名前の軌道の上を、静かに、慎重に、踏み外さぬように歩いてゆかなければならない。
「そうでもないと――ふとした気まぐれで命じたことでも、家臣はそれを実行しようとして、時には命すらかける。――昨今では、それを武士道と勘違いしている愚か者が多いようだしな」
 喬之介は苦く嗤ってみせる。
「それゆえ、大名家に生まれたものは、幼時よりそのことを叩き込まれて育つ。おのれの我が侭で家臣を死なせたりすることのないように」
「喬之介さまも?」
 美緒の問に、喬之介は唇に笑みを含んだまま、答えない。
 ただ、
「和泉守殿のご家中には、“人”はおらぬのか!」
 憤ったような守り役の声が、耳の奥に残っていた。
「でも、そういたしますと、つまり和泉守という方は、ずいぶんとお大名の基準から外れた方ということになりますのね」
「それが、藩政改革に乗り出す前は、いっそ、暗愚と言われるほど見事に“何もせぬ”御仁であったらしい」
「でも、家中の方の妻女を、召し上げてしまわれるような方ですのよ」
「男女の道ばかりは、思案のほかと――」
「まあ!」
 その思案のほかの道へ、なかなか踏み出してくれぬ人を、美緒は軽くにらみつける。
「それより、そのような急な人格の変容というのが気にかかる。あるいは――」
「はい?」
「いや。だから最初に云った。らちもないこと、と」
 話している間、喬之介の表情からは、張り付いたような苦い笑みが消えない。
 それが、ふっと疲れたような薄い笑みに変わった。
 閉ざされたままの目蓋――長い睫毛の、頬に落とす影が濃い。
 どれほどの間か、美緒は黙したままそれを見ていたが、不意に思い出したように、ポンと手を打った。
「そう、そう。忘れるところでしたわ」
 云って、すっと身を寄せる。
「八重とか云ったあのお腰元、先刻、こっそり屋敷を抜け出して行きましたわ」
 美緒の言葉に、やはり――と、喬之介は笑む。
 刺さったまま抜けぬ不快な棘のように、喬之介の心に刺さっていたものがあった。そのひとつが、あの八重という娘だったのだが、こうして動いてくれれば、むしろ彼女の正体も、役どころにも察しがつく。
 より正しくは、確信がというべきか。
「気付いていらっしゃいました?」
「美緒さんも、であろう?」
「はい」
 くすりと、いたずらめいた笑いが返ってきた。
「すごい目で姫君をにらんでいましたもの。あれなら、誰だって気付きますわ」
「目つきは知らぬが――」
 喬之介は苦笑する。
「千代姫が部屋に入ってきたとき、殺気が立った。あれは尋常ではなかったな」
 ただの間者――幼い姫に対する刺客としては、あまりに私怨、私情が激しすぎる。
「何者であろうな……」
 呟く喬之介に、
「亡くなった方――お幸の方のご主人であったというお人の所縁ゆかりの方ではないかと、わたくし、思います」
 確信ありげな、美緒の言葉が返った。


                                    つづく
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rei★azumi

Author:rei★azumi
ヒト属ネコ科 コタツ猫亜種 読書ネコ
『神鵰侠侶』で金庸にハマった、金庸初心者。
とりあえず、金庸の小説全作品読破を目指すも、突如神鵰侠侶二次小説にハマる。
さて、この先、どうなりますことやら。

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