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五月闇  -捌-

         第五章   血闘

 漆より


「吐く……まいな、あの男は」
 ポツリと、佐伯主馬は重い呟きを洩らした。
 藩邸の奥まった場所。降りしきる雨音は遠く、ごく微か。耳をそばだてて、ようやく聞こえるほどだった。
 吐きはすまいな。もう一度、今度は胸の奥で呟く。どれほど責め立て、たとえ五分だめしに切り刻もうと、あの青年は姫の所在を云いはすまいと。
「ようも、我が娘をたぶらかしてくれた」
 一目見た途端、こみ上げてきた憤りに、そう口走っていたが、奈津のほうから慕ったであろうことは、想像に難くない。
 虚無的な陰影を刷いてはいるが、容姿も気骨も見事な青年である。
 いっそ、斬れと命じようかとも考える。
 いずれはそうするつもりで、藩の内情の一端を洩らしたのである。
 が、それでは姫の所在が永久に知れなくなる。
 あるいは、わざと解き放って、行く先を突き止めようか、とも。
 が――
 ――あの男、何者なのであろうか?
 その懸念が、佐伯に行動を思いとどまらせていた。
 胸に、無頼の証のように朱の刺青いれずみがある。と云って、市井にたむろする、ごろつき、やくざまがいの浪人たちとは異なっている気がする。そういう者たちに特有の、崩れ、すさんだ影がない。
 あるいは、公儀の手のものか、とも思う。
 隠密、お庭番と呼ばれる輩(やから)は、身分を隠すためならば、どのような真似もしてのける。いかような拷問を受けても、決して口を割らず、堪え切れぬとなれば舌を噛んで果てるか、強固な意志で自身の呼吸を止めて自殺するとも聞いている。
 しかし、それらのものたちとて結局は武士。って立つ基盤は、自分たちと同じもののはずだった。
 が、あの青年は、自分たち武士とは、心のありよう、価値観の置き所が、まるで異なっている。
 やはり、斬らせようか。
 考えを決めかねているうちに、
「お留守居」
 障子の向こうから声がした。
「八重が、戻ってまいりました」
 曽根十五郎の声が云う。
 白い、張り詰めた表情ときついまなざしを思い出し、佐伯は我知らず眉を寄せていた。
 自ら望んで間者と刺客の役割を請け負った娘。
 おこうの方の旧夫・松井某の妹。
 これまでに、八重の果たした役割と経歴を思えば、嫌悪感を抱くのは間違いであろうが――
「姫の所在を突き止めたとの由」
「それで?」
 仕留めてきたのか、との無言裡の問いに、それが――と、曽根は言葉を濁らせる。
「わかった。これへ通せ。仔細しさいを聞こう。それと、あの浪人をな」
 はっと、障子の向こうで、曽根が腰を浮かせる気配がある。
 次の言葉を、この曽根がいかに待ち望んでいるかを考えると、一層嫌悪感が募ってくる。
 ――このような者たちしかおらぬ。わしにも、あの殿にも。
 それでも、
 ――それでも、藩は守らねばならぬ。
 口腔にたまった苦いものを吐き出すように、佐伯は不快げに吐き捨てた。
「もう、用はなくなった。始末せい」




 ――雨が降っている……。
 ここまで聞こえるはずのない雨音を、信二郎は薄れかけた意識の底で聴いていた。
 夢とも、うつつとも……。
 ただ、聞こえるのは雨の音。
 容赦もなく降りかかり、体の芯までを凍てつかせる、冷たい、鉛色の氷雨。
 その中を、十歳にも満たぬ少年が、童女の手を引いて彷徨さまよっている。
 ――ああ、これは夢だ……。
 夢の中で、信二郎の意識がそう呟いた。
 美緒と別れる前の。
 一族の尽くが滅ぼされ、まだ幼い兄妹だけが密かに逃された、これは、そのときの夢だ――と。
 季節は、そう、秋の終わりだったろうか。
 ――俺が八つ。美緒が、ようやく五つ……。
 父が斬り死にした理由も、自分たちだけが家を出されねばならぬ理由も、何もわからなかった。
 覚えているのは、屋敷を出るときの母と祖母の白装束。一対の鈴を美緒に持たせたときの、母の涙。峠から見た、我が家の屋根から吹き上げる炎――。
 理由もわからぬまま、追っ手の影に怯える日々。
 兄妹を逃すために、斬り殺された老僕。
 飢え、凍え、怯えながらの、ただ、その日一日を生き延びるためだけの日々。
 そんな中で、美緒が病んだ。
 幼い妹を、途中の荒れ寺の山門に残し、救いの手を求めて、信二郎は村の家々を回った。
 何の助けも得られず、悄然と山門に戻ったときには、妹の姿はなく、ただ銀色の鈴だけが、その場に落ちていた。
 ――雨が……降っていた……。
 心の芯までを凍てつかせる、冷たい鉛色の氷雨が。
 あれから二十年。
 長じて、時を得て、改めて辿った糸は、呆気ないほどに容易たやすく妹の元に行き着いた。
 それでも――
 善意の人に育てられ、聡明で美しい娘に成長した美緒と再会を遂げた今となっても、そのときの記憶と、山門に残した妹の姿とが、消えることのない傷のように、心の奥に残り続けていたらしい。
 それが、あの姫を見たとき、思いがけず血を吹いた。
 ――愚かな。
 おのれの心を、そう嘲いつつ、救おうとせずにはいられなかった。
 そして、今は――
 微かな人の気配が、浅いまどろみを破った。
 うすく、目を開ける。
 牢格子の外、獄舎の天井板が一枚分ずらされ、見覚えのある顔が、そこから覗いていた。
 ――右近殿?
 意外な顔が、この場にあるのをいぶかったとき、別の物音が響き、右近の顔は天井の裏に隠れた。
 程無く、獄舎の扉を開けて入ってきた人物をみとめ、信二郎は、うすい皮肉な笑みを口許に刷いていた。




「姫の所在が知れたぞ」
 傷つき、身の自由を奪われた相手に、曽根は残忍な優越感をもって告げた。
 憎い――と、最初から思っていた相手だった。
 冷笑的な態度も、皮肉なもの云いも、藩随一といわれた田崎新八と互角に立ち会って見せた、剣の才までが。
 あるじの意を迎えることに汲々としている自分を、高みからわらわれているような気がしていた。
 そして、奈津。
 江戸留守居役のひとり娘。
 仰ぎ見るだけだった高嶺の花の心を、やすやすと捕らえて見せた。
 その相手を、存分に切り刻んでやれる。
「討ち取った姫の首を見せてやれぬのが残念だが、お留守居の命とあれば致し方ない。引導を渡してくれる。覚悟せい」
 抜き放った大刀を構える。
下種げすが……」
 内心を見透かしたような、侮蔑ぶべつの言葉が投げられた。
 何の感情の色も含まず、冷ややかに。
「おのれ!」
 怒りにまかせて振り下ろした一刀は、わずかに逸れた。
 いや。信二郎が、わずかに身をひねってかわしたのか。
 切っ先は胸元をかすめ、着衣とともに、彼を縛めた縄を断ち切っている。
「往生際の悪い!」
 再び刀を振り上げようとした曽根は、それが何か強靭きょうじんなものに絡め取られ、手から奪い取られるのを感じた。
 それが、相手の髪を束ねた細紐だと悟ったときには、その細紐は曽根の首に絡み、息もできぬほどに締め上げている。
 断ち切ろうとして手探りした脇差しも、すでに腰にはなかった。
 頸部けいぶに、ひやりとしたものが押し当てられる。
「………………」
 助けてくれと云おうとして、声にならなかった。
 ただ、渇き切った喉が、ひくひくと痙攣(けいれん)を繰り返す。
「命乞いか?」
 わずかに掠れた声が、ささやきめいて耳孔に吹き込まれる。
「二度目はない」
 氷のような刃が、左頸部から鎖骨の間に、垂直に、心臓に向かって、残酷なほどの正確さで刺し込まれて行った。




 白刃を引き抜くと、傷口から大量の血が、噴水のように吹き上げた。
 降りかかる血汐を、信二郎は傍らの壁に寄りかかって、かわした。
 血と生命を失った骸が床に倒れる音を聞きながら、断続的に襲い掛かってくる目眩めまいに堪えようと目を閉じる。
 四肢が、鉛を詰め込まれたように重い。
 意識が遠退きかけ、よろめいた体を、誰かの腕が支えた。
 はっと脇差しを構えなおし、視線を向けて、ああ……と息をく。
「……右近殿…………」
「危うくなったら御助勢を――と、思っておりましたが」
 影衆の若者は、困惑したような笑みを浮かべる。
「結局、その必要もなく――」
「いや。礼を云っておく」
 手出し無用。咄嗟に天井裏に向けて送った合図を<い/rt>れて、右近は手出しを控えてくれたのである。
 おそらくは奈津を死に追いやった男。せめて、始末は自分の手でつけたかった。
 救えなかった娘への、それが償いになるとも思えぬが。
「少々……仕掛けをしておりまして、お迎えが遅れました。お許しを。それと、あのお女中のことも――」
 悪びれぬ口調で云って、右近は軽く頭を下げる。
 詫びを言いながらの常と全く変わらぬ落ち着き振りが、妙に可笑しかった。
 一歩を踏み出しかけ、足元のおぼつかなさに、右近の肩を借りる。獄舎を出ようとしたとき、
「曽根様。なにやら、物音がいたしましたが――」
 退けられていた牢番が、顔を覗かせた。
 二人の姿に、瞬間はっと息を飲み、ついで声を上げようとする。
 一瞬早く、右近の脇差しが、頚動脈けいどうみゃくね切っていた。
 もう一方の手が、手際よく口を塞ぎ、声が洩れるのを押さえる。
 音の立たぬように、丁寧のその場に寝かせてやる。
 ほぼ同時に、彼方で何かの弾ける音が聞こえた。
 火事だと叫ぶ声に、お出会いめされと呼ばわる声が重なる。
 右近の仕掛けが、発動したようであった。




「来た……な」
 低く呟いたのは、喬之介だった。
 屋敷を包囲する形に、四方から迫ってくる害意に満ちた気配がある。
 およそ二十――と、その数を読むと、口許に淡い笑みをきざみ、刀架から大刀を取り上げた。
 形から云えば野中――正確には田園地帯――の一軒家。攻めるには容易たやすかろう。
 が、それはこちらに備えのない場合。
 八重という娘が屋敷を抜け出したと聞いた時点で、喬之介はこの襲撃を予測している。
 部屋という部屋からは畳が上げられ、可能な限りの建具も取り外されている。
 板の間ならば、水を流して血汐を洗い流せる。これは戦闘が終わった後の備え――と、書物を取り出して一席ぶっての、これは上月半左衛門の智恵である。
 女たちはひとかたまりに、幼い姫を守って奥の間。上月老人から厳しく武芸を仕込まれている千草はもとより、美緒も、並の男では及びもつかぬ小太刀の使い手である。
 が、無論、そこまで敵に踏み込ませるつもりはない。
 今一人、台所から家の雑用までの一切を引き受けている老僕は、いつもの端部屋。
 そして――
「爺」
 傍らに、なにやら嬉々とした風情で控えている守り役に、喬之介は声を送った。
「室内の戦いに槍は向かぬと、教えてくれたのはそなたであったぞ」
 何かというと戦国武者さながら、大身の槍を引っ下げてくる老人は、今日も今日とて室内に持ち込んだそれを、りゅうりゅうとしごいているらしい。
「なんの。ご懸念なく。短槍も用意してござりますわい」
 老人が答えたとき、板戸をぶち破る音と絶叫――戦闘の開始を示す音が響き渡った。



 最初のそれは、執拗しつように潜り戸を叩く音だった。
「誰だね、今時分――」
 嘉平かへいと呼ばれている台所番の老人は、眠そうな声を上げた。
 時刻はすでに二更(午後十時)を回り、人の訪ねてくる時刻ではない。まして、この雨の中――
 わたくし――と、雨音に交じって答えたのは、優しげな女の声であった。
「八重でございます。あの……」
「ああ。お前様かね。いつの間にお屋敷を出てゆきなすってたのかね?」
 よっこらしょと掛け声をかけて立ち上がると、潜り戸の前に立ち、掛け金を外す。
 わずかに開けられた隙間から、雨の飛沫をはじいて、きらりと青白く光るものが覗いた。
 抜き身の刃。
 見て取った瞬間、嘉平は大きな悲鳴を上げて、その場から飛びのいている。
 一拍のさらに何分の一か。それほどの遅れで、嘉平の空けた空間に白刃が突き入れられる。ほんの一刹那、飛びのくのが遅れていたなら、老僕の身を串刺しにしていたであろう。
「命冥加みょうがな」
 いらだたしげな声とともに、板戸が蹴り破られ、白刃が振りかぶられる。
 ヒイッと悲鳴を上げてへたり込んだ嘉平の上を、しかし、白刃の描く軌道は素通りした。
 またも偶然かと舌打ちする侍の傍らを、たすき掛け、抜き身をかざした一団が、屋敷内へとなだれ込んでゆく。
 藩内の出来事を一切外部に洩らさぬため、この屋敷のものは、女子供といえど皆殺し。そういう命令を受けてきている。
 今度こそと刀を構えなおすと侍は、尻餅をついたまま、じりじりと後ずさる老僕に迫った。
 たかが下郎。それもこんな年寄りが、彼の刃をかわすなど、有り得ない。
 二度は偶然。
 三度目はない。
 そして――
 一瞬の後、体から鮮血を噴き出させ、悲鳴を上げてのけ反ったのは、その侍のほうであった。



「嘉平だな」
 座敷まで響いてきた絶叫に、喬之介は小さく笑みを洩らし、
「さよう」
 莞爾かんじとして半左衛門は答える。
「嘉平とて、老いたりとはいえ影衆。相馬右近が配下。いまどきの若造ずれに、引けは取りませぬて」
 云っているうちに、廊下を走るものの荒々しい足音が近づいてくる。
 いよいよ出番。
 しわ深い顔に、ニヤリと笑みを浮かべると、
「お先に、御免」
 半左衛門は、大身の槍をかい込んで廊下へ出た。
「無理をするな」
 あるじの声は、耳の中を右から左。先陣を承った武者さながらに心が弾んでいる。
 荒っぽい局面に行き当たると、妙に楽しくなるのは、若いあるじと同様である。
 腕に覚えのある武士にとっては、その武芸の腕を振るえる場を与えられて、嬉しくないはずはない。
 人を斬るという行為に対して――ことに堂々の立会いにおいては、武士というものは、殺人に対する罪悪感を持ってはいない。戦って、斬るも斬られるも、互いに覚悟の上。双刀を帯びたときから、身に負ってきた宿命。常住坐臥じょうじゅうざが、その覚悟を負っているからこそ、武士は、武士としての尊敬を緒人に要求できる。斬るのも斬られるのも嫌だと云うなら、刀を捨てて町人になればよいのだ。
 槍を片手に、廊下に仁王立つと、
「そこな木っども」
 半左衛門は大音声を張り上げた。
「これより先へは通さぬ。たって通りたくば、この上月半左衛門を倒してからまいれ!」



 ざく……。鈍い音がして、槍の穂先に顔面を割られた男がのけ反る。
 斬る、突く、薙ぐ。さらには、石突を返して武器にする。並みの腕前では、この武器の間合いに入ることさえできない。そうして、上月半左衛門は、この武器の扱いに熟達していた。老齢の、しかも小兵とは思えぬ身のこなしで、軽々と大身の槍を扱う。
 その背後で、刃の骨肉を立つ鈍い音と、不当に命を奪われるものの、怨みのこもった絶叫が響いた。
 チラリと向けた視界の片隅を、喬之介に真っ向から斬り下げられ、倒れ付す男の姿がかすめた。
 ――相変わらず、鮮やかな……。
 舞いの手に似た――視界の隅に納めた若い主の身ごなしに、内心の賛美を送る。
 視力を持たぬあるじの、身の安全についての懸念はない。
 まだ幼かった喬之介に、初めて剣の手ほどきをしたのは、半左衛門。じきに彼では相手をつとめることがかなわなくなり、やがては、藩の指南役にさえ舌を巻かせる腕前になった。大名家の子息に生まれられたのが惜しい。一介の藩士の子息であれば、手元に引き取り、道場を継がせるものを、と。
 視力を失っても、その腕は衰えず、むしろ、幾度かの実践を経て、冴えた。
 まして、対峙たいじする相手は、まず盲目と見て取っての侮りを抱く。
 正眼、切っ先をやや左寄りに構えた、優美にすら見える痩身そうしんから、その卓越した技量を見て取るには、今度の刺客には明らかに役者不足であった。
 そよ風に似た――。彼の剣を、そう評したのは、この場にはいない信二郎だった。
 避けることも受け止めることも許さず、ふわりと手許に舞い込み、通り過ぎてゆくと。
 不意に、室内に闇が落ちた。
 故意か偶然か、何れかの刃が行灯を斜めに断ち切り、剣風が灯を吹き消した――と知れるのは、後刻のことである。
 唐突に訪れた深い闇の中、降りしきる雨だけが、白く天と地の間に筋を引いている。
 その中で、刃の肉と骨を断つ音だが、断続的に響いた。
 雨の音は、聞こえぬ。
 戦いの高ぶりが、雨音を消しているのだろうか。
 いざ――と、老武士は槍を構えなおす。
 人の形に白く雨をはね返して、左右から刺客が迫る。
 その一方の腹を石突で突き上げ、返した穂先で、今一人の胸板を貫いた。
 そこで一息。
 老いの身の、さすがに息が続かぬのである。
 呼吸を整え、むん……と声無き気合を発し、槍を引き抜こうとした。
 その直前、千段巻きを握り締めた相手が、そのままずずっと横に倒れた。
 勢いで、老人も引きずられることとなる。
「や……。こりゃ」
 放せとは、さすがに口にできぬが、瞬間、狼狽を見せる老人の背後から、白刃が振りかぶられる。
 気づいて振り返ったが、槍を引き抜く間も、捨てて、刀の柄に手を掛けるゆとりもない。
 これまでか――と、半ば観念の眼を閉じかけて、さらに一瞬後、相手が、そのままの姿勢で永久に行動を停止しているのに、半左衛門は気づいた。
 ゆっくりと、あおのけざまに倒れた死体に、足元の水溜りが盛大な飛沫を上げる。
 その眉間から、奇妙な黒いものが生えていた。
 見慣れた黒い鉄片――忍びの使う棒手裏剣。
「…………余計な手出しを」
 ほうっ……と、息を吐きながらの老人の憎まれに、いつの間にか傍らに来ていた影――相馬右近は、チラリと皎歯こうしをのぞかせて、笑みをつくった。
 そのまま、あるじのいる座敷のほうへ駆け上がってゆこうとする。
 その足が止まり――右近は、ゆっくりと後ろに向き直った。
 雨を蹴立てて、闘気のかたまり驀進ばくしんしてくる。その気配があった。
 やがて姿を見せたそれに、半左衛門は、
「おっ!」
 短く息を呑む羽目になった。
 ――これは……! 
 戦国の世であったなら、一廉ひとかどの武者。甲冑をまとわせたなら、さぞかし似合いそうな。そう思わせる男が、雨の飛沫を浴びて立っていた。
 無骨、剛直といった言葉に人型を取らせたような、四角い、いわおのような顔と体つき。腕前も、他の刺客たちとは格段に違うのだろう。
 後詰なのであろうか、まだ刀を抜いていない。
 刺客などという役割を振るには、あまりに不似合いな――
 人食い虎が牙を剥いたような獰猛どうもうな笑みを見せると、男は刀の柄に手を掛けた。
 おう――と答えて、半左衛門は槍を構えなおし、それをかばうように、右近が前に出ようとする。
「田崎新八」
 冷ややかな声が、斜め後方から男に掛けられたのは、そのときだった。
 声のほうに視線を向けた半左衛門老人は、再び息を呑んだ。
「………し……信二郎か……」
 足はあるか――と、思わず喉まで出かかった。
 それほどの――息を呑むに足る凄愴せいそうな姿が、その場にあった。
 まさに、地の底から這い上がってきた幽鬼――と。
 いつもは衿元で束ねられている髪が、雨に梳き流され、濡れそぼって顔の半面を覆っているせいもあろうか――
 右の手に下げられているのは、尺五寸余の脇差し。ここに達するまでに、すでに何人かを手に掛けているらしい。その血刀を雨が洗い、足元の水溜りに紅の色を混じていた。
 返り血とおのれの血に朱く染まって立つ痩身には、老人の背に粟を生じさせるような鬼気がまといついている。蒼白い、燐光に似た焔さえ、目に見えるようであった。
 無茶な――と、小さく声を上げた右近を鋭い視線が捕らえ、
「奥へ――」
 ひくい、有無を云わせぬ口調で、信二郎は云った。
 それだけで、全てを了解して、右近は奥の間へ走りこんでゆく。
 獰猛な肉食獣の笑みをそのまま、田崎新八が、宿敵に向き直った。



                              つづく
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