散華

 今日の後に明日が続いている。その、当たり前の事実が、耐え難かった。
 いっそ、眠っているうちに息が絶えぬものかとも思う。
 昼間はまだ良い。それでも、ふと一人になったときや――ことに、深夜に目覚めたときなどは、焦燥という名のどす黒い生きものが、げっ歯類の鋭い歯でもって精神をかじり取ってゆく、その音が聞こえる心地すらするのだった。
 無理もないと同情するものもあろう。ようやく二十歳をすぎたばかりの青年が、両眼の光とともに前途を奪われたのだ。
 決して揚々とひらけていると信じていたわけではない。亡き父に代わって藩主となった叔父の挙措、そして、これまで自分が受けてきたしつけから、大名家の当主の暮らしが、儀式ばった堅苦しい日々だけの連続であることは推測できていた。
 それでも、義務として受け止めていた一切が急に取り払われ、自分が、ただ呼吸しているだけの余計ものとなってしまったという自覚は、それまで自分がっていた足場を取り払われた頼りなさとともに、云い知れぬ空虚なものを、彼に与えていた。
 幼時から身に付けられた厳しい躾の成果と、わずかばかりの矜持が、自棄じきになることを許さぬのも一層苦しかった。
 その少女――菊池美緒と出会ったのは、そんな頃のことであった。
 喬之介二十一歳の春。まだ、青柳の姓を名乗ってはいない――


 ――毒を盛られた。
 そんな噂が耳に達したのは、まだ病床にあるうちだった。
 従兄弟を――叔父の実子を世継ぎの地位に付けるために、と。
 お気の毒なと、同情とも憐れみとも取れる声も、望みもせぬのに耳に入ってくる。文武に秀でた、申し分のない若君であられたものを。お側の者はもとより、ご本人も、さぞ口惜しいことであろう、と。
 ――煩わしかった。
 何もかもが――幼いときから、実父以上のあたたかさで喬之介を見守ってきた守り役のいたわりさえもが、うとましかった。
 まだ床を離れることさえできぬ体で、世子の住む中屋敷を出て、見捨てられたも同然だった下屋敷に移ってきたのも、凛として崩れぬ態度を取り続けてきたのも、そんな周囲の声に対するせめてもの意地だった。が、その意地も、歩行が叶うようになった頃には、張ることに疲れ果てていた。
 その日、周りのものの目が離れた隙に、一人で屋敷を抜け出したのは、何もかも――そんな自分からさえ逃げ出したかったからかも知れぬ。
 思えば、失明の身には、無謀に過ぎる行為であった。
 そもそもが、屋敷を出ることが出来たことすら、奇跡に等しかったのである。
 方向も定まらぬまま、どれほど歩いたであろうか。杖一本を頼りの闇の中の手探りに、すぐに進退はきわまった。
 行くあても戻る術もなく、闇の中に立ちすくむより方法がない。己れの心情そのままの立場に、途方にくれるよりも先に、自虐めいた苦いわらいがわいた。
 そんなとき――
 闇の中に、鈴の音と軽い足音が近づいてきて、
「どうなさいました?」
 奇麗な声が云った。
 若い――ようやく思春期を向かえたばかりの少女の声のようであった。
 かまわれる煩わしさより、人手を借りねば何一つできぬ我が身への苛立ちよりも、その少女の声の明るさにかれた。
「ここは、どのあたりであろうか?」
 訊ねながら、ああ、春だったのだと、何故とはなしに思った。
 重苦しい日々のなかに、いつしか忘れていた季節のうつろい。
 柔らかな風に乗って流れてくる、あれは何の花の匂いだろう。
「あの、お連れの方は、おいでには?」
 一人で、と答えると、少女は驚きの声を上げた。
「目の不自由な方が、お一人で!?」
 不躾ぶしつけ――と云うべきなのだろうが、それが、れ物にさわるような屋敷のものの態度に嫌悪感すら覚えはじめていた喬之介には、むしろ心地よかった。
「じょ……嬢さま」
 慌て気味のしわがれ声は、少女の連れ――老僕らしい。
 少女の声の明るさにつられたように、
「外の風にあたりたくなって、屋敷を抜け出してきたのだが、どうも無謀だったようだ」
 そんな言葉と笑みが、素直に出た。
「お屋敷は、どちらですの?」
 下屋敷の所在を答えると、老僕が、それは――と、困惑したような声を上げた。
「ここからは、随分とございますかあ」
「爺や。おまえ、あの辺りは詳しい?」
「いえ。手前は――」
「そう。わたくしも、あの界隈かいわいはよく知らないし――ああ、そうだ!」
 ぽんと手を打つと、
「わたくしたち、これから叔父の家にまいりますの。ご一緒にいらっしゃいませんか? 叔父なら、あの辺りも詳しいはず。お屋敷まで、お送りできると思います」
「嬢さま。見ず知らずの方を、何も――」
「お困りの方を見捨てて行くなんて、そんな薄情な真似ができますか。第一、そんなことをしたとわかったら、この美緒が、父さまや母さまに叱られてしまいます」
 案外気の強い娘らしい。ぽんぽんと老僕をやり込める、早口の口調が小気味よい。
 よろしいですかと問われれば、喬之介としては、相手の好意に甘えるよりすべがない。いずれ、誰かの助けを受けねばならぬ身である。
「そう? では」
 失礼いたしますという声をともに手が取られ、もう一方の手が背に回された。
 びん付け油と若い娘の体香と、匂い袋を身につけているのだろう、淡い香のかおりとが一体となって、近々と寄り添う。
 一瞬の当惑を押し隠すと、喬之介は「かたじけない」と礼を述べた。
「あの時の喬之介様は、本当に、途方にくれたように見えました」
 後日になって、云った美緒に、
「その通りだったのだから、仕方がない」
 喬之介としては、苦笑しながら答えるより方法はなかったのだが――
 闇の手探りのおぼつかなさが、この少女に支えられて、ほんの少し楽になった気がする。同時に、そんな己れの現金さが、可笑しくもあった。
 少女の導きに従いながら、
「みお……さん、と云うのか」
 先ほど聞こえた名を確認する。みお殿――と堅苦しく呼ぶより、町方風の「みおさん」という呼び方の方が、この闊達かったつそうな少女には相応ふさわしいように思われた。
「はい」
 にこっと笑ったのがわかるような、明るい声で返事があった。
「美しいに『玉の緒』の緒と書きます。あの……あなた様は?」
「喬之介」
 足を止め、杖で地面に『喬之介』と書いてみせる。姓を訊かれるかなと思ったが、美緒は納得したように、ああ……とつぶやいただけだった。
「美緒さん。鈴の音がするが?」
「ああ。これ?」
 手をはなすと、チリリ……と鳴らしてみせる。澄んだ柔らかい音色が耳に心地よい。生まれてこの方、鈴の音色などに関心を示したことはなかったと、喬之介は苦笑した。
「もう、覚えていないくらい小さいときから持っていますの。この鈴は金で、もう一つ、対になる銀色の鈴があったはずなのですが――」
「嬢さま」
「ほら。あれですもの」
 美緒が肩をすくめた。不思議なことに、それがはっきりとわかった。
「わたくしが、もう一つの鈴の話を始めると、すぐにあれ。あれでは、隠し事をしていると大声で云っているようなものでしょう?」
 こそっと耳許でささやくと、声を上げてころころと笑う。
 芯からの明るい気質のようであった。
 そのほかに、いくつかの他愛のない言葉を交わし――
 どの辺りまで歩いたかは、もとより喬之介には見当もつかぬ。
 ただ――
 執拗に自分たちの後をついてくる足音の存在を、視覚をうしない鋭くなった耳が告げた。それも、一つや二つではない。
 ――刺客かも知れぬ……。
 命を狙われる覚えが、ないでもなかった。
「美緒さん……」
 さりげなさを装って、名を呼ぶ。
「叔父上の家とやらまでは、遠いのか?」
「もうじき――誰か、けてきますわね」
 この先も、度々喬之介の舌を巻かせることになる、美緒の鋭さだった。
「わたしが目的らしい。――ここへ、置いていってくれぬか」
「だめ。それに、人通りがなくなりました。襲ってくるなら――ほら!」
 ばらばらっと足音を響かせて、一気に近づいてくる気配があった。
 囲まれた――と感じる。
「爺や! 走って!! 叔父さまを呼んできて!!」
 美緒の声に、
「かまわん。行かせろ」
 低い、聞き覚えのない声の横柄な命令が重なる。それが、
「喬之介ぎみですな」
 名を問うた。
頼母たのもの手のものか。それとも――」
「その儀については、お答えいたしかねる」
「なるほど――」
 来るものが来たな。そう思った。
 叔父の若狭守わかさのかみには、この時点で三人の男子があった。
 次席家老の梶山頼母は、そのうちの一人の外戚にあたる。自分の甥を世継ぎの座につけようと、喬之介に毒を盛らせた。それがもっぱらの噂であった。
 真偽はどうあれ、試みは成功したといってよいのだろう。命こそは取りとめたが、薬のせいか高熱が続いたためか、視力を喪った喬之介は、世継の座を引かなければならなかった。家訓により、身に障害を持つものは家督を相続できなかったし、そうでなくとも、視力を持たぬ身には、一藩の藩主が勤まるはずもなかったのである。
 が、慎重派の何者かは、それだけで済ませるつもりはなかったらしい。
 叔父の若狭守は、実子の誰よりも、家督を継がせるために養子とした甥の喬之介を愛した。世継ぎの地位を喪った今も、家嗣<けいし/rt>の決定には強い発言権を持つ。
「のぞみは、わたしの命だな」
御意ぎょい
 城勤めの条件反射か、あるいは、この刺客たちの頭株は相当に皮肉な性癖の持ち主なのであろうか。いずれにしても、十中十助からぬ命の瀬戸際に立たされてさえ、この場違いな「御意」が、喬之介には妙に可笑しかった。 
 同時に、
 ――髙が五万八千石、そうまでして手に入れさせたいものか……。
 権力のみを思い、伴う義務の重さを想像したこともないのか。だとしたら、哀れであった。その権力を求める誰かも、傀儡かいらいとなるだろう従弟も。
「それほど、わたしが邪魔か」
 ふっ……と浮かべた笑みが、不思議なほど澄んでいる。
 それが一瞬、刺客たちをたじろがせたことに、喬之介は気付かない。
「よかろう。好きにするがよい。が、この女人にょにんは、わたしとは何の関わりもない、行きずるの女性にょしょうだ。見逃してやってほしい」
「駄目ですっ!」
 叫ぶと、美緒は喬之介も刺客も予想もできなかったとんでもない行動に出た。喬之介を庇うように立ちふさがると、
「あなた方、それでも武士ですかっ!?」
 刺客に向かって、糾弾の言葉を投げつけたのである。
「どんな理由があるかは知りませんが、目の見えぬ方に向かって、大勢で刃物を抜き連ねるなど、男のすることではありません! 恥を知りなさいっ!!」
 恥を知るものならば、暗殺など企てるはずもない。
 場合によっては、美緒も一緒に斬られかねない。行きずりの自分に無償の厚意を示してくれた少女。それだけは避けねばならない。
「美緒さん!」
 下がらせようと、肩に手をかける。
さかしらな――」
 刺客の一人の苦々しげな声。
 次の瞬間、
 ――来る!!
 直感した。
 刹那――体が勝手に動いていた。
 美緒を後方へ突き飛ばしざま、自身も身を沈めながら逆手を大刀の柄にかける。
 おのずと、逆手さかて居合いの型になった。
 白刃の通過した軌跡に、相手の胴があった。
 肉を断つ鈍い手応えと、異様な悲鳴。顔にかかる血の生温なまぬるさ。
 ――斬った……!
 その自覚が来たのは、一瞬後であった。
 返り血を浴び、血塗れた剣を手に、ゆらりと立ち上がった喬之介に、
「お見事、と申し上げるべきか、はたまた、運がよろしいと申し上げるべきでござろうか」
 刺客の頭株が、なおも余裕を感じさせる声で云った。
「さすが、大名家の子息に生まれられたのが惜しいと、剣術指南役に云わせたお腕前。が、そのお目で、この場を切り抜けることは無理でござろう。見苦しい足掻きはお止めなされたがよろしかろう」
 慇懃いんぎん無礼。最後は潔く――と云う口調に、窮鼠きゅうそをいたぶる猫の残忍さが感じられる。
「それでも、無駄と承知で足掻いて見せるのが、人というものであろうな」
 笑みとともに、そんな台詞が、さらりと口から出た。
 多分、自分はここで斬られて死ぬことになるだろう。ならば、むざと斬られはすまい。可能な限りあらがって、戦って死んでやろう。
 二十年生きた――いや、今、現に自分が生きている、それがせめてもの証のような気がしていた。
「美緒さん――」
「ここに」
 斜め後ろから答えがあった。意外に落ち着いた声音である。人一人が斬り殺されるところを目撃した、若い娘のものとは思えない。
「逃げてくれ」
「喬之介様は、ここで斬り死になさるおつもりなのですか?」
「多分」
「でしたら、逃げません」
「美緒さん!!」
 声を荒げてから、失笑する。これでは誰も、他人とは思ってくれまい。
「脇差しをお貸し下さい。わたくしも戦います。いえ…戦えます」
 足手まといにはならぬ。自分の身は自分で守るという意味であろう。
 断固とした口調。この少女の意志をひるがえさせるのは、おそらく、大地を動かすよりも困難であろう。
「わかった」
 短く云うと、喬之介は脇差しを差し出す。
 受け取った美緒の、鞘を払う音が、はっきりと聞こえた。
 ――相当使えるようだ。
 手を引かれたときの、竹刀胼胝しないだこの硬さからある程度の予測はしていたが、どうやら、思った以上の技量のようだ。が、
「せめて……後ろに下がっていてくれ。つまらぬ男の見栄かも知れぬが、婦女子の手を血塗らせるのは本意ではない。それに、死に際は潔うせいと意見をくれた面々だ。よもや、女子おなごを斬る卑劣はすまい」
 淡々と云った言葉が、どうやら痛烈な皮肉になったらしい。
 喬之介を囲んだものたちの気配が変わった。
 明確な殺意の存在が、見えずともはっきりとわかる。
 闇の中から、いくつもの殺気が吹き付けてくる。
 ひとつ、ふたつと数えることができそうな――むしろ、個体に近い。その一つが、
「参る」
 急速に距離を縮めてきた。草を踏む音を伴っている。
 ――風! 
 振り下ろされる刃を、喬之介はそう感じた。
 わずかに身を開いてかわすと、風の向こう、殺気の中心目掛けて刃を走らせる。
 ざく!!
 骨ごと肉を断つ鈍い音。手応え。断末魔の呻き。
 一切を意識の外に押しやって、喬之介は身近に迫った次の“風”に刃を向ける。
 身を守ろうという意志は、最初からない。ただ、次々と吹き付けてくる“風”に向かって刃を振るえばよかった。
 五体の、己れの意志に従って動く限り。
「後ろ!!」
 鋭く、美緒の声が飛んだ。 
 瞬時に喬之介は、真後ろに迫った気配に剣を突き入れている。
「女!」
 罵声と足音。それが、美緒の方に迫ろうとしている。
 はっ! と意識が逸れた瞬間、左腕を風が薙いだ。
 痛みを感ずるゆとりすらなく、相手を斬り倒し、
「美緒さん!?」
 安否を問う声を上げた。
 鋭い打撲音に、男の呻きが続き、
「無事です!!」
 云った声が、
「左!!」
 新たな警告を発する。
「駄目! 間に合わない!!」
 悲鳴と同時に風が――黒い颶風ぐふうが己れを巻き込もうとしているのを、喬之介は感じた。
 ――これまでか。
 意外なほど淡々と思う。
 無念さも絶望感も、恐怖すらなかった。
 そして――
「ぐうっ……」
 自分のものではない呻き声を、喬之介は聞いた。
 反射的に身を躱し、あけた空間に、今まで対峙たいじしていた相手が倒れこむ。
「叔父さまっ!」
 美緒の声に、
「てめえら、可愛い姪に、なにしやがる!?」
 勢いの良い罵声が重なった。
 それに下駄の音と骨肉を断つ音が幾つか続き、
 ――“風”が止んだ。
 刺客たちが引き上げたのではない。
 引け――という声はなかった。
 おそらくは今、喬之介の傍らで冷たい骸となっているのが、刺客たちの頭であろう。
 剣戟けんげきを示す音が途絶えたあと、生きてこの場にあるものの気配は、己れを除けば二つきりであった。
 美緒と、彼女が叔父と呼んだ人物と。
 そして――
 ――生きて……いる。
 一拍おいて、その自覚が来た。
 半ば、呆然と佇ちつくす喬之介に、
「大丈夫かえ?」
 声がかけられた。
 伝法な口調の、からりとした、不思議にあたたかい声だった。
 どこか、懐かしい感触がある。
 思いながら、無言でうなずいた。
 いくばくかの間をおいて、
「生きて……います」
 答えながら、奥深いところで何かが変わったと、そう感じていた。
 負わされていた義務の重さも、唐突にそれを取り払われた後の空虚さをも超えて、何か確かなものが、からだの内側に根を張っている。今はまだ、言葉にはあらわせぬが――
 走り寄ってくる、これは多分美緒の足音だ。鈴の音が一緒についてくる。
「みんな一太刀か。大した腕前だ」
 男――美緒の叔父が云った。声に感嘆の響きがある。
 みんな、まだ若いのになと、ひくい呟きがそれに続いた。
「花の時期だってえのにな」
「同情などしてやることはありませんわ、叔父さま。見えぬ目では、どうせ逃れられぬから、さっさと斬られてしまえ。そう云ったんですよ、この人たちは」
 義憤に満ちた美緒の口調に、ほう……と興がっているような声が答える。
「………ただの足掻きです。死にたくなかったと云うわけですらない。ただ、抗いもせずに斬られてやる気には……なれなかった」
 いや、この少女がいなければ――
 腕の傷に手際よく布を巻き付け、応急の手当てをしてくれる少女に、喬之介は思う。
 この少女が自分を庇って飛び出さなければ、そして、刺客が彼女を斬ろうとしなければ、自分は諾々と彼らの刃にかかっていたろう。
「そりゃあ、そうだろうなぁ。例えば、咲いてる桜に、どうせ風が吹けば散るんだから、今のうちに散っちまえ――ったって…なあ。いずれ散る桜が、一生懸命に咲いてるんだから奇麗なんじゃねえか。おっと。どうも、寺に住んでると、話が抹香臭くなっていけねぇや」
 軽く笑い声を上げると、
「菊池偐斎げんさい。これでも、一応は医者でね」
「喬之介――と。故あって、姓はご容赦願いたい」
「家の名前は出したくねえ――かえ?」
 偐斎の声音に混じった微かな棘に、喬之介は淡く笑んだ。
「家名はともかく、家には三百余の家臣と、その家族がおります。まだ……それらの者を守らねばならぬ立場にありますゆえ」
「重たかねえかい?」
「ええ……」
「だったら、下ろしちまいなよ、そんなもん」
 冗談めかして云って、偐斎は笑う。
「そう……。いずれは」
 ――そのような時も、来るのだろうか。
 思ったとき、風に混じって微かな――ごく微かな何かが頬にふれた。そんな気がした。
 桜が――と、美緒が声を上げる。
「とうとう、散り始めたねえ。喬之介さん――だったね。お前さん、桜を後ろ盾に戦ってたんだぜ」
「………………」
 散華さんげ
 ふと、そんな言葉が、喬之介の中に浮かんだ。
 骸となって足許に転がっているものたちを弔う意味ではない。
 ただ、雪に似て霏々ひひとして舞い落ちる白い花びらの姿が、一刹那、闇に閉ざされたまな裏に映じたのであった。
「さあ。こんなところに長居は無用だ」
 偐斎が云い、美緒が再び喬之介の手を取った。
 その手の導きに任せながら、喬之介は一度だけ、後を振り返った。
 閉ざした眸に映るのは、あくまでも闇。
 その闇の中に、燦爛さんらんとして舞い散る桜の映像を、彼のめしいいた眼は見ている。
 ――散る桜なら――いずれ果てる命なら、せめて、この命の続く限り、戦ってみようか。
 誰と。
 まだ、誰とも相手は知れぬ。
 あるいは、その相手は、運命そのものであったかも知れない。
 静かな決意が、己れの胸の空洞をゆるやかに満たしてゆくのを、喬之介は感じている。
 ゆるく、風が流れた。
 むせるような血臭にまじって、微かに桜が匂った。そんな気がした。


  
                                  了
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コメント

わーい、実は、喬之介さんが気に入っていたので、彼の物語が読めて、すごく嬉しい♪
毎度のことながら、お見事!
闘っているシーンの緊迫感やらスピード感やら、情景が目に浮かぶようでした。
そして、このラストもよいですね~!絵になります!!

ふく*たま さんへ

ありがとうございます。
これも『五月闇』と、ほぼ同時期ぐらいに書いたのかな。
読み返してみると、我ながら、良くこれだけ書いたというか、
絶対、何か自分以外のものが降りてたなというか(笑)
ともあれ、これも気に入っている作品ですので、
気に入っていただけて、とても嬉しいです。

そういえば、この話、ちょっと離れた所にある小さな公園の、
満開の桜の下で練ったのを思い出しました。
で、目を閉じて意識を澄ませていたら、風に舞った花びらが指先に触れたの、本当にわかったんですよ。

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