闇の塔  参

       
           第一章 魔公子 承前




「この小屋が発見されたと!?」
 小者の報告に揺玉の、そして付き従う武人たちの顔色が変わった。
 あの戦いから半年あまり。揺玉たちは〈ひつ〉にいた。
 〈へき〉王室の残党狩りを打ち切って帰国の途に着いた璞炫はく・げんを討つべく、生き残りの武将たちを糾合して後を追い、〈畢〉の国内に潜入。機会を得られぬままに、郊外の森の外れにある、誰のものとも知れぬ、荒れた狩猟小屋に潜んでいたのである。
 その隠れ家を目指して、武装した〈畢〉の騎兵の一隊が進んでくるというのである。

「なぜ、ここが分かった?」
「密告者でも?」
「よもや、裏切り者が!?」
「止さぬか!」
 うろたえ、ざわめく一同を、この場では最年長に当たる安仲之あん・ちゅうしが一喝した。
「〈壁〉の武人ともあろうものが、何たるざまか。見苦しい」
「しかし――」
「こうなった上は、姫をお守りして、切り抜けるよりほか  
 云いかけて、はっとしたように、傍らに置いた剣に手をやる。
 静かに――と一同に示しておいて、扉をひき開けた。
 武官の平服に剣を帯びただけの青年が一人、立っていた。
 何者との問いに、
「〈畢〉国左軍豹騎営ひょうきえい校尉、楊駿よう・しゅん。〈壁〉国長沙公主、りん揺玉殿に話したき議あり、参上した」
「聞く耳持たぬ!」
 若い武人の一人が斬りかかろうとするのを、安仲之が制した。
「単身、それも平服でやってきたものを、話も聞かずに斬り捨てたとあっては武人の道にもとる。話を聞こうではないか。聞くだけはな」
 視線を受け、奥に座した揺玉が、同意を示す。
「投降されよ」
 その前に通された楊駿は、簡潔に云った。
「断る」
 劣らず、揺玉の答えも短い。
「どうあっても?」
「死んでも。  たとえ殺されても、あの男には」
「それで、ご家来方の命が、購えるとしても?」
「なに……」
 翠緑の色合いを帯びた眸が、わずかに光を放った。
「お気づきだろう。小屋の周囲は武装した配下に固めさせている。今、ここで剣を交えれば、あなた方は全滅する」
「そちらも、無傷では済まぬぞ」
 安仲之が会話に割り込んでくる。
「十余名で?」
「おぬしを人質に取るという手もある」
「よさぬか」
 揺玉が、穏やかにたしなめた。
「武人の道を説いたそなたが、それを言ってはなるまい」
 卓の上で白い指を組み合わせると、揺玉は敵国の武将を見上げる。
「わたし一人がくだれば、他の者は見逃すというのだな」
「いかにも」
「公主! 聞いてはなりません」
「その通りです。敵のいうことなど、耳を貸してはいけません」
 臣下たちの制止の声を耳の端に止めながら、しかし揺玉の心を占めていたのは、あの山間の小さな村の惨状。そして、彼女を守って死んだ武人たちのことだった。
「わたしのために、これ以上血を流すことはできぬ」
 璞炫を討とうとしたことも、今になって思えば一時の激情。成し遂げることは不可能に思われる。
「楊駿とやら。今の言葉、偽りではあるまいな」
「誓って」
「ならば  
 立ち上がると、
「みな、これまで、よう仕えてくれました。礼をいいます」
 家臣たちに頭を下げた。
「後を追うことはならぬ。これが最後の命令だ。よいな」
 言い置いて扉に向かう。その背を、誰かの立てる嗚咽おえつが打った。
 扉の外、緑の隙間から洩れ落ちる陽射しが眩しい。
 続いて外へ出た楊駿が、その気色を険しいものにした。
 いつの間にか、小屋の外に配置しておいたはずの部下が、他のものに入れ替わっている。
 さらに、
「ほう。それが〈壁〉の夜叉公主でござるか。お手柄ですな、楊校尉」
 にこやかに宇文糺<うぶん・きゅう/rt>が歩み寄ってきた。
 無常鬼も、あの世へ引いてゆく亡者を見つけたときには、こんな表情をするのだろうか。埒もないことを考えながら、楊駿はつい、渋面になる。この場の差配はすべて、この楊駿に任せられたはずであった。それを、何を思って、この男がしゃしゃり出てくるのか。
「主公のご命令でな。どうやら、他のものどもは無傷で小屋の中と見える」
 言葉の後半は口の中で呟くと、
「弓隊、前へ!」
 大声で命じる。
 小屋から飛び出してきた武人たちに、進み出た弓兵が、次々を矢を射込んでいった。



 死人鴉が不吉な声で鳴き交わしながら、上空を舞っている。その声を耳の端にとどめながら、楊駿は重い気持ちで馬を進めていた。やり場のない憤りが胸に蟠っている。が、それが誰に対するものか――〈壁〉の武人たちを射殺させた宇文糺にか、すべてを任せるといいながら、宇文糺を差し向けた璞炫はく・げんにか、それとも「主公の命令」の一言に、ろくに抗議もできずに引き下がった己の不甲斐なさに対するものなのかは、楊駿自身にも分かってはいなかった。
 親衛軍の兵たちに囲まれて馬にゆられている揺玉の姿が眼に入った。夜叉公主の異名を持つ姫は、唇を一文字に結び、昂然と胸を張っている。その顔は、木々の葉の色を映して蒼かった。
   気丈な公主だ。
 夜叉公主の呼び名に恥じぬ。楊駿は思う。
 その公主の運命は、考えぬことにしている。
   わたしは〈畢〉の  あの方の家臣だ。あの方の命に従うのが務め。
 ふと  背中に強い視線を感じて振り返る。
 木陰に人が立っていた  と、思う間もなくその姿は消え、なぜか、羽ばたきの音が耳を打った。
 気の迷いというには、あまりにも鮮烈に脳裏に焼きついてしまったその人物の、紫暗の眸の印象を、楊駿は頭を振って追い払った。
 やがて森を抜ける。そうして丘を越えれば、〈畢〉の城都が見えてくるだろう。裡に冥塔と呼ばれる黒い塔を抱えた〈畢〉の城都が。


 冥塔  と呼ばれる黒い石作りの塔には、どうしたことか、ひとつの窓もない。十年前、璞炫が国主の位につくまでは、その扉も固く閉ざされ、封印がなされていたという。
「封じられているのは、闇そのもの。あるいは、古の混沌の欠片とも云われておりましてな」
 蒼穹に黒い禍々しい姿を浮かび上がらせる、その塔を見上げる揺玉の傍らに馬を寄せて、宇文糺が囁いた。
「我が主公は、お気に召さぬものは容赦なく、贄としてあの塔に放り込まれる」
 意味ありげな笑いを浮かべるこの男の喉を、切り裂いてやりたい衝動をかろうじて抑えると、揺玉は昂然と胸を張って館の門をくぐった。
 前庭を抜け、そのまま、謁見に使われるらしい広間へと引き立てられる。
 天井の高い、昼なお薄暗いその部屋に、揺らめく灯火に月の面にも似たほの白い貌を浮かび上がらせて、その男は居た。
 二剣の紋章を背にした玉座に、黒の長衣に身を包み、射干玉ぬばたまの髪を肩に打たせて、ゆったりとかけた若き貴公子の姿は、さながら一服の絵であった。わずかの身じろぎに、長衣の上に紅色の模様が浮かび上がるのは、それが紅の染料を黒に見えるまでに幾重にも重ねて染めた、高価なものだからであろう。
 中原の民は黒髪黒瞳と一口に云うが、墨を流したような黒髪は、女性にも珍しい。まして眸の色は、実の所は濃淡はあっても大抵は黒褐色。まれに浄眼と呼ばれる青い瞳や、青緑虹彩、揺玉のように西方の血を引くことを示す翠がかったものもあるが、真の闇色というのは極めて珍しい。
 そうして、その闇色の眸は、上古の種族の血を引く証と云われていた。
 その、闇色の眸に瞶められて  
 揺玉は、奇妙な、既視感に似たものにとらえられた。
 どこかで見た  いや、見たというなら、確かに戦場で目にしている。
 そうではない。
 誰かに似ているのか。
 では、誰に?
 脳裏に浮かびかけた面影を振り払うと、揺玉は仇敵の顔を睨み据える。
 この  ろくに剣も扱えそうにない、美しいだけの、女のような男が、国を滅ぼし、父母を、同胞を、殺したのだ。
ひざまずかぬか!」
 宇文糺が声を荒げた。
「汝らごときのまえに、つく膝は持たぬ」
 凛として云い放つと、揺玉はなおも、仇の白皙を見据える。
「なるほど。これは噂通りの気の強さだ。ただ殺すには惜しい」
 云って璞炫は玉座の傍らをかえりみる。
 影のように、青藍の衣の女が控えていたことに、揺玉はようやく気付いた。深衣というのであろうか、衿下から裾にかけてが優美な弧になった、玄室の壁画かようにしか見られむような古風な衣装が不思議に似合っている。
 白い手を〈壁〉の武人たちの血で染めて、わらっていた女。嬋媛せんえんという呼び名を、揺玉はまだ知らぬ。
 女があるじの耳に何かを囁きかける。
 凄艶  とも云える笑みを浮かべると、璞炫は衛兵に向かって命じた。
「ひとまず部屋へお連れするように。後ほど、鄭重におもてなししようほどに、な」



             
「入るぞ!」
 ひと声かけ、返事も待たずに部屋に足を踏み入れた楊駿は、窓外に、絢爛たる夕映えを背に立つ冥塔の姿を認め、びくっと足を止めた。兵舎仕込みの勢いの良い罵声が、その口から飛び出す。
 石造りの三層の最上階。狭い、石壁がむき出しになった部屋である。調度といえば木の卓と椅子、寝台。あとは鎧と衣類を入れるひつ。唯一の飾りといえるのは、今は壁に掛けられている白銀の剣だけで、これは柄にも鞘にも精緻せいちな飾りが施されている。
 部屋の主は卓に向かい、木片を相手に小刀を使っていた。
「おまえ、よく平気でいられるな、この部屋で」
「気になるなら見るな」
 いつもの調子でそっけなく答えた蒼牙は、ちら、と顔を上げると、
「荒れ模様だな」
 珍しいものに対する口調で云った。
「すまじきものは宮仕え、か」
 森での一件は、既に彼の耳にも達している。
「可哀想にあの姫も。戦場で果てた方が幸せだったかな」
 すぐにうつむいて、小刀を使い始めるのに、
「また木彫りか、呑気に。いっそ武人をやめて、職人にでもなってしまえ」
 楊駿が噛み付く。
「俺に当たっても仕方がないだろう」
 苦笑すると、蒼牙は寝台の下から酒瓶を取り出す。杯を楊駿の前に置くと、なみなみと注いだ。
 ひとつしかない椅子を譲り、自分も杯を手に、寝台に腰を掛ける。
「呑めよ」
「…………?」
素面しらふで絡むのは、やりにくいだろ?」
「お前な  
「ん?」
 ほら、と目顔で促され、杯に手を伸ばす。自棄やけのようにがばっと喉に放り込んで  いきなりむせ返った。
「お……お、おまえ…こんな…強い、酒……」
 咳の合間に切れ切れに云うのに、そうか? と、勧めた本人は涼しい顔で、水でも飲むように一杯、干してしまっている。
 傭兵部隊の  というより、基本、男の群れの通過儀礼は酒と喧嘩だったと、楊駿は今更のように思い至った。楊駿自身は国主  当時は世継ぎの守り役の息子ということで周囲がかなり遠慮したようだが、蒼牙については、どちらについても入営当時のかなり派手な武勇伝が、未だに一部での語り草になっているし、『天狼』と知っていれば手を出さなかったと、腕自慢で知られた右軍紅騎営の隊頭がぼやいたというのも、かなり有名な話である。
「まあ、無理をせずに、ゆっくりやれ」
 武勇伝の主は、さらに涼しい顔で二杯目を口にしている。
「あのな……」
「うん?」
「いい!」
 自分で杯に注ぐと、
「……致仕を願い出たそうだが」
 しばしの沈黙の後、楊駿は思い切ったように切り出した。
「誰から聞いた?」
「誰からでもいいだろう」
「そうだな」
 一瞬、空にした杯に目をやると、
「却下された」
 蒼牙はあっさりした口調で答えた。
「なぜ?」
「知るか。俺が目障りで仕様がないくせに、出て行ってやろうとすると、許そうとはせん。  妙な男だ」
 仮にも主君と呼ぶ存在を、そう云ってのける。
 この男なら  冷めた、どこか昏い眼をした友に、楊駿は思う。この男が今日の自分の立場であったなら、主公の命に自分の意志を曲げたりすることは、決してなかっただろう。
「わたしは、致仕を願い出た理由を聞いたつもりだったのだがな」
「ここにいる理由がなくなった」
「おい?」
「俺が  前々から、あの男のやり方を気に食わんと思っていたことは、お前も知っているだろう。それでも、俺がここに留まっていた理由は、俺を拾ってくれた人への  お前の親父殿への義理だけだ。その人が、この世におられない今となっては――」
「この地に留まる理由はないというのか」
「ああ」
「薄情もの」
「ああ」
「本っ当に、お前という男は」
 云いかけて楊駿はふっと淡い笑みを浮かべた。
 幼いころ、屋敷で飼っていた黒猫を思い出したのである。黒絹を思わせる毛並みを撫でてやると、部屋から出てゆこうとしたのをやめて、じっとなすがままにさせている。そのくせ手を放すと義理はすんだという顔つきになって、さっさと出て行ってしまうのだ。
「猫だったらな……」
「ん?」
「猫だったら、それでも気の向いたときには、撫でてもらいに擦り寄ってもこように」
「悪かったな」
 妙に生真面目な口調で云うと、席を立って窓際に寄る。
「三年……」
 ぽつりと一言。
 三年前、ふらりとこの地に足を踏み入れた蒼牙に、入営を進めたのが、楊駿の父である車騎将軍、楊惇よう・じゅんだった。その理由が、国内で屈指の使い手であった宇文糺の剣を、わずか一合で叩き落した腕前を見込んでのことだったのか、それとも  。ただ、どこか投げやりな眼をしていた若い放浪者に、老武人が一時の居場所を与えた。それだけは、紛れもない事実であった。そして  
「楊将軍には、何かと目をかけてもらった。心苦しいほどに……」
 急速に色を失ってゆく夕映えの空に目を向けて、蒼牙は呟くように云った。
「父は、実力のない者には、目はかけぬよ」
 楊駿の手は、卓の上に置き去りにされた、木彫りの小さな馬を弄んでいる。
「それに、お前も十分にそれに応えたではないか。もっとも……父がお前を黒騎営の指揮官に抜擢したときには、少なからず心配したが。何しろ、右軍の黒騎営といえば、名にしおう」
「札付きのならず者の集まりか?」
 友人の言葉を引き取ると、蒼牙は小さくわらう。
「俺も連中と同類だということを、忘れていたと見える」
「自分を卑下するのはよせ」
「卑下するつもりなどない。いい連中だ。少々乱暴で、あちこち雑に出来上がってはいるが  
「ざ、雑って、おまえ……」
「雑だろう?」
「た……確かに」
 冷静な評価に、思わず納得する。
「まあ、確かに宇文不徳なんぞと比べれば、数段以上に上等な連中だとは認める。だが、出自から云えば」
「俺の出自?」
 言葉の裏に、ごく小さな棘が生じた。
「知っているような口ぶりだな」
 はっと口をつぐむ楊駿に、一瞬向けた視線を、蒼牙は今度は壁にかけた剣に向ける。
 赤子のとき、この剣だけを身に添えて、小船で川に流された。身の上を聞いたのは出会いのとき。父の問いに答えた、乾いた口調が印象的だった。
 聶鋭じょう・えいの名を与えたのは養い親。東方の、十年近く前に滅び去った国の、小(小城塞)のあるじ。
「どうでもいいこと、だったな」
 独り言めいて云った、その口の端に、先ほどとはちがう、うすい冷たい笑みが浮かぶ。
「蒼牙、お前  
 お前を捨てたという親を、恨んでいるわけじゃないだろうな。楊駿の問いに、呼気だけでフッと小さく嗤う。また、卓の前に戻ってくると、自分の杯に酒を注いだ。
「十五や六の若造でもあるまいに」
「本当か?」
「嘘を云ってどうなる」
 あのな  と、楊駿は正面に立つ友を見上げる。
「いいか、蒼牙。世の中にはな、我が子をうとんじて捨てる親など、どこにも居ないぞ。それに、お前の親御は  
「俺の親は?」
 黒々とした、宇宙の深淵を思わせる闇色の眸にみつめかえされ、狼狽し、口ごもった。
「い、いや、その、あの、つまり……そう、そうだ。赤子だったお前に身に添えられていた剣。あの剣の拵えの立派な所から考えてもだな、おそらくは身分ある人の子息に違いないと。それに、その  蒼牙?」
 くっくっと声を殺して笑い出した友人を、なかば呆然と眺める。
「と、いうことにしておいてやろうか」
 笑いを納め、蒼牙は手にした酒盃を口に運ぶ。
「いい奴だな、お前」
 などとは、死んでも口に出来る気性ではない。
「世の中には、知らぬ方が良いことが多くあると、お前の親父殿も、よく云っておられたことだしな」
 皮肉めかしての言葉に、酔いも手伝ってか顔を赤くした楊駿は、
「じ、邪魔をした」
 慌てて出てゆこうとする。それを、
青邱せいきゅう
 呼び止める。
「やるよ」
 卓の上にあるものを放り投げた。
 先刻  楊駿が来るまで彫っていた、風に乗って駆ける駿馬のかたちの小さな木彫。
 暇があれば、こうして小刀を手にしていることが多いが、彫り上げたものは知人やら何やら、欲しがるものに呉れてやってしまって、手元には残していない。
 楊駿にも、そのうちでいいからひとつ寄越せと云われていたのである。
「あ、ああ。礼を云う」
 何やら少年めいた嬉しそうな顔になって、改めて出てゆこうとするのに、
「で。公主は今夜は、地下牢でお休みというわけか?」
 さりげない口調で、蒼牙は問いかけた。
「ああ」
 応えて、部屋を出ようとしたところで、楊駿はふと振り返った。
「何か云ったか?」
「……いや」
 部屋はすでに影に閉ざされて、互いの表情も判じがたかった。
「そうか」
 背を向ける。
 その、友の足音が遠くに去るまで、蒼牙は忍び寄る夜闇に包まれて、その場に佇んでいた。





      第二章 《闇》

 
        
 深更  
 松明の炎が、不意に激しく揺れ動いた。
 気付いて顔を上げた揺玉は、足音もなく獄舎に入ってくる黒影を目にした。
 膝を抱え、眠ったふりを装う。
 かちりと鍵の開けられる音がして  近づいてくる人物の気配を呼吸だけで探る。
 床に落とした視線の隅に、黒の長靴ちょうかが入ってくるのを認めて  
 それに、足払いをくれる。
 が  
 無造作に一歩下がることでそれをかわした相手は、くすりと小さく笑声を洩らした。
 え  と、見上げた視線が、興がっている様子の闇色の眸とまともにぶつかる。
 瞬間、顔に血が上るのを覚え、揺玉は思わず両手で頬を押さえていた。
「そういう仕草は、確かに若い娘なんだが  
「なんだと!?」
 思わず声を荒げ、はっと気付いて口を押さえる。
「大丈夫だ。大声を上げたところで、来る者はいない」
「え?」
「ついてくるがいい。逃げる気があれば、だが」
「………………」
 揺玉は呆気にとられ、〈壁〉滅亡の夜、自分を救ってくれた青年の顔を、まじまじと眺めた。
 牢番から奪い取った剣を公主に渡すと、蒼牙は先に立って歩き始める。揺玉も慌てて後を追った。
 狭い階段を上り、無人の回廊を抜け  格別見咎められることもなく、二人は中庭に達していた。このまま敷かれた石畳を辿れば、館の門に達する。
 静か過ぎる。揺玉の呟きに、ああ  と傍らを歩く青年が応じる。
「戦が起きるたび、国から、館から、人が消える。三年のうちに五度  
「多すぎる。それでは  
「勝っても国力が持たない。国が荒れるはずだ。そうまでして、あの男  
 云いかけ、ふ、と言葉を切ると、先に立って中庭に踏み出す。
 揺玉も慌ててその後を追う。
 夜の庭は、月の光に照らされて、妖しいほどの美しさだった。
 ところどころ、こんもりと黒い植え込みの影に、霊獣と思しい石像が白い姿を覗かせている。それらは、月の雫を浴びて生き生きと、今にも動き出しそうに見えた。
 銀色の月光樹の花の馥郁ふくいくたる香りが、夜気に漂っている。
 そのせいだろうか。揺玉はふと、果てしのない夢幻の世界へ足を踏み入れてしまったような錯覚を覚えていた。
 それは、彼女の傍らを、影にも似て足音もなく歩む、長身の青年のせいだったかもしれない。
 敵将である彼が、なぜ自分を救おうとするのか。その敵将の言を、なぜ自分は疑うこともせず、従っているのか  
 月明かりに照らし出された横顔は冷たいまでに端正で、立ち並ぶ霊獣の彫像よりも彫像めいて、いっそ、この世のものではないかに思われた。
 このひとは、わたしの運命さだめをどこへ誘ってゆくのだろう。
 そんな想いが揺玉の心をとらえたとき、青年  蒼牙が面に微かな緊張の色を刷き、足を止めた。
 何気なくその視線を追って、揺玉は息を呑む。
「石像が……」
 石像が動き始めていた。



                                 つづく

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