秋水長天

 遊子帰客 夢断故郷雲水之間    西風古道 回首一片秋水長天

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闇の塔  伍

       第二章 《闇》  承前



「つまらぬ」
 残心の姿勢のままの煌星こうせいの唇から、チッと小さな舌打ちが洩れるのと。
 くくっ……と、蒼牙の喉奥から、これはさげすみとも取れる笑声が洩れたのと。
 果たしていずれが先であったのか。
「瞬きひとつせぬ、か」
 忌々しげに云った、煌星の双手に握られた刃は、蒼牙の喉もと一寸ばかり手前で、ぴたりと止められていたのである。
 獄舎に走りこんできた楊駿は、思わずその場にへたり込んでいる。
 そうして蒼牙は――


 片頬に刻んだ笑みはそのまま、さすがに、脱力したように柱に全身を預けている。
 が、わずかにのけぞらせた喉が小さく慄えているのは、まだくっくっと含み笑いを続けているせい――剣を揮った相手が傭兵の誰かなら、確実に「下手くそ」と罵声のひとつもれているところであった。
 実際、黒騎営の誰彼なら、確実に三分から一分、蒼牙自身なら、同じ速度で剣を振って、ぴたりと刃を首筋につけ、一滴の血はおろか毛筋ほどの傷もつけぬ、くらいはやってのける。まして――殺す意志もなく、ただなぶるためだけに振られた刃を、見切れなくてなんとしよう。
「こやつが!」
 無言の蔑みを感じ取ったのであろう。煌星の白皙が屈辱に歪む。
 下ろした剣の柄を握りなおした。そのとき、
「我が君――」
「少爺!」
 再び、男女ふたつの声が重なった。
 女の方は、常に煌星に影のように従っている嬋媛せんえん。蒼牙に切られた顔を、今は黒紗の布で隠している。
 そうして、男のほうは――
「誰がそなたに、ここへ入ることを許したか?」
「お許しは頂いておりません。お叱りは承知の上で」
「主……主公、お許しを。楊校尉が無理に――」
 愴惶として云う獄吏の言葉も、たってのお願いに――と云いかけた楊駿の言葉も、煌星は手を振って退ける。
「少爺」
「聞かぬ」
「少爺!!」
「もうよい。この者、あ奴に呉れてやる。冥塔へ連れてゆけ」
 獄吏に命じる。
「お、お待ちを。お待ちください、少爺」
 少爺、か。ひくく煌星は呟く。
 壁にかけられた松明の焔の揺らぎが、白面に奇妙な陰影を落とす。
「少爺、少爺。そなたの父、車騎将軍も躬をそう呼んだ。決して主公とは呼ばなんだ」
 はっとしたように、楊駿は眸の色をひるませる。即座に、主公と云い直した。
「お気に障りましたら、お許しを。ですが、どうか、それだけは――。どうか、彼の――聶蒼牙のこれまでの働きに免じて」
不要やめろ!」
 初めて、蒼牙が言葉を発した。
「やめろ。楊青邱せいきゅう
 搾り出すような―― 一言を発するたびに、大きく肩が喘ぐ。
「蒼牙――」
「…俺のための、命乞など、するな」
「そうは行くか!」
「やめてくれ、青邱。……累が、お前の身に、及ぶだけだ…」
「そんなことを恐れて、男と――お前の友といえるか!!」
「お前を、友にした、覚えはない」
「蒼牙ッ!!」
「麗しい友情よな」
 嘲笑わらい含み。云った煌星の腕に、そっと嬋媛がふれた。深衣の袖で口許を覆うと、何事かを囁く。
 ふむ――と呟いた口許が、にっ――と鋭い弦月を刻む。
「たっての願いというからには青邱よ、そなた、躬に何を差し出す?」
「は?」
「何を差し出すかと訊いておるのだ。差し出すものによっては、願いを聞いてやっても良い」
「少――いえ、主公……」
 怪訝な表情になって楊駿は主君の、そうして、その背後の友の顔に視線を向ける。
 やめろ――と、なおも蒼牙がかぶりを振るのが見えた。
 あいつが戦場以外の場所で、あんなを見せるのは、初めてじゃないか。
 思ったとき、楊駿に口許に、小さく笑みが浮かんでいた。
 何も――と、その笑みを浮かべたままで答える。
「差し出すものは、何もございません」
「ない、と?」
 煌星が、わずかに眉をひそめる。
 ございません。答える楊駿の表情に、揺るぎはない。
 煌星の背後、蒼牙がほっとしたように力を抜くのが見えて、浮かべた笑みがさらに深いものになった。
「手前は〈ひつ〉の武人。この身は〈畢〉に――すなわち国主にささげたもの。今更、改めて差し出すものは、何もございません」
「その上でなお、あれを殺すなというのか」
 はい――と、楊駿は答える。
「彼を――蒼牙を、聶鋭を殺してはなりません。彼は――このお方は、あなた様の――」
「知っておる」
 答える煌星の声は、氷よりもなお冷たかった。
「これが我が同胞はらから。父上がその出生を不吉として捨てよと仰せられた、双生の弟であることなど。とうに知っておった。そなたの父――楊文昌も知っておった。こやつも知っておる。だが、それがどうしたと云うのだ?」



「双生児?」
 口にしてなお、その言葉の意味が胸に落ちてくるまで、数瞬を要した。
 それほどに、揺玉にとっては意外な言葉であった。
「聶蒼牙と璞炫はく・げん、いえ、璞煌星が、双子の兄弟だと仰る?」
 なるほど。云われれば、眸の色、髪の色以外、その面差しにも相似点を数えることは出来よう。が――。
 納得した途端、衝撃に似た感情が、揺玉のうちに湧き起こった。そうして、自分が衝撃を受けていることに対し、揺玉は二重の衝撃を味わっていた。
 なぜ、自分にそのようなことを告げねばならぬのか。理不尽な、憤りに似た感情さえ覚えて、眼前の佳人の面に、切尖に似た眼光を射込む。
「その、国主の双子の弟が、何ゆえに」
「傭兵などを世すぎにしていたか、と?」
「そうです」
「あの子――いえ、あの者は、国の外で育ちました。〈ひつ〉の血筋など、当人も夢にも思わなんだはず」
 それが――と、婦人は、静かな口調で話を続ける。兄弟という二人のそれによく似た闇色の眸は、ただ壁の一面に向けられている。まるで揺玉の視線を避けるかのように。
「〈畢〉の――はくの家では、いつの頃からか双生児は忌むべきものとされておりました。また、そうでなくても、家にとって双生の男子は争いのもと」
 古来から、同腹異腹、長幼の順を問わず、兄弟が家督を巡って争った例は多い。まして同腹の、それも時を同じくして生まれた兄弟となれば、当人のみならず、周囲の家臣たちもが、兄と弟、それぞれを押し立てて争いとなるのは、ほぼ必然とも云えよう。
「二人が生まれたのは、そう、丁度今から二十五年前の蝕の日のこと。
 双生の男子。月が陽を呑むという忌み日の出生。それだけでも城内は大変な騒ぎでしたのに、それに追い討ちをかけるように、巫人の長からひとつの予言がもたらされました。兄弟の争いと、それによって引き起こされる大きな禍。〈畢〉の滅亡をすら暗示する――。
 いずれの子を残すか、どちらも処分するか。あるいは神託を無視するか。臣たちは、いくつもの派に分かれて争いました。
 国主は――側の者の言を退けられず、それでも我が子の命を絶つに忍びず、側近の一人に公子の一方を託し、密かに国外で養育するようにと命じました。身の証となるよう、国に伝わる名剣の一振りを与えて。
 ですが、それを不服とする者――後顧の憂いを断つべしと主張する一部の重臣が、国主に無断で討手を差し向けました。
 ……討手は一人として帰らず、そうして、公子の養育を命じられたその臣も、数日後に川の畔で死体となって見つかったとか。
 それきり、公子の行方はようとして知れず――
 が、それもまた天命。逢うことのない我が子であれば、何れかの地で生きていてくれればそれで良い。国主も妻も、そう思い定めたのではありましたが――」
 そっと足音を忍ばせて入ってきた少女が、二人の前に茶器を置き、一揖いちゆうして下がってゆく。
「ですが、運命の皮肉は、神籤しんせんによって選ばれた大公子――兄の方が、ひどく虚弱であったことです。
 さすがに成人を危ぶまれるほどではありませなんだが、十歳になるまでは、ほとんど季節ごとに重い病にかかり、加冠の齢になっても、まともに馬にも乗れぬ――」
「それは――」
「女子ながら武人であられるそなた様には、考えられぬことでありましょうな」
「いえ、その……」
 揺玉は口ごもる。確かに彼女自身は、男子に対する価値基準を、武技においていることは否定しない。が、男子の価値がそれだけではないことも、理屈としては知っている。
 現在の一応の宗主国である塊の何代か前の軍師は、一度として身に甲冑を帯びず剣もかず、頭脳のみによって数々の戦に勝利を収めたとも聞く。
「ただ、優しい子ではあったのですよ。学問の好きな。鳥やウサギや、小さな生き物の好きな。
 ですが、この時代、一国の世継ぎが、それでは済まされぬ。と、考えた家臣たち――ことに、武人たちの間には、当然のように、こちらの公子を残したのは間違いではなかったかという声が起こり、中には、行方の知れぬ二公子を探そうとする者すら現れ――。
 そうして、そうした声や動きは、いくら知らせまいとしても、いつの間にか当人の耳に届くもの。一国の世継ぎの重責と、それに応えられぬ負担。見も知らぬ、おそらくは自分より健やかであろう双子の弟への妬心。そのようなものが、あの子を歪めていったのでしょうね。
 十五の年、隣国に攻められ、他に手段もあったというのに、あの子は塔の封印を解き、魔性のものを呼び出してしまった。
 ……それよりあとは、そなた様もご存知の通りです。
 それから十年。さだめの糸は皮肉にも、あれほど行方の知れなかった二公子を――今は聶蒼牙と名乗っている今一人の子を、この国へ招きよせてしまった。
 本来であれば、車騎将軍の――炫の守り役であった楊文昌殿の望んだ通り、いずれは蒼牙に本来の身分を知らせ、兄弟が手を携えてこの〈畢〉を守ってゆく。そういうことも可能であったでしょうが。
 いつのまにやら炫の――大公子の弟への思いは、憎しみにまで歪んでいたらしい。そうでなくとも――」
「夫人。あなたは――」
「どうやら、運命とやらは、予言を成就させる方へと動き出しているらしい」
「夫人。――いえ、娘子と、敢えてお呼びする」
「何でしょう?」
「何故にあなたは、そのようなことを、わたしにお聞かせになった?」
 それは――婦人はようやく、その淡月の面に、ふわりとした笑みを浮かべる。兄と弟、いずれの顔にも、おそらくは浮かんだことのないであろう、柔らかい笑み。
「ひとつには、お話せねば、そなた様は、〈畢〉のものは皆敵だと、この館から出て行って――みすみすげんあぎとに飛び込んだでありましょう?」
「あ……」
 小さく声を発し、揺玉は思わず、両手を口許にやる。
 そういうところは若い娘なんだがと、この場に蒼牙がいたら、又そう口にしたろうか。
 いまひとつは――云うと婦人は、その青年と同じ色の眸を、揺玉に向ける。 
「そなた様が、あの子を――鋭殿を想うておられるから」
「いいえ! わたしは、決して!!」
「そうして、おそらくは鋭殿も。それが、何やら此度のことに大きく関わってくる。そういう気がしてならぬのですよ」



   あの男に首を刎ねられるよりは少しはまし、というところか。
 深い闇の中、蒼牙は片頬に小さく、自嘲めいた笑みを浮かべていた。右の口角だけを上げる癖は、左頬のきずをかばったせい――三年余り前、この疵を受けたときからついた癖で、それが端正に過ぎる顔を、ひどく皮肉な表情に見せるのに、当然のことながら当人は気付いていない。
 冥塔  と、誰が呼び出したか、暗黒の塔の最上階。窓をふさがれ、一筋の光も射さぬ石造りの一室。四肢に鉄の鎖をかけられ、冷たい石壁に、彼は背を預けていた。
   兄弟……か。
 その事実は先年、楊駿の父である車騎将軍、楊文昌の口から聞かせられていた。彼が捨て子とされた理由も。
 はく煌星のやり方を嫌い〈畢〉を出ようとした蒼牙を、国内に留めるための方策であったのだろう。が、逆にそれが蒼牙をして、致仕出国の意志を固めさせたのは、皮肉であった。
 彼が国内に留まっていたのは、先に楊駿に語ったとおり、ただ、楊将軍への義理、それだけであった。
 というより、
 ――脱走などしたらせがれを追手に差し向けると、恐ろしい脅し方をしたんだったな、あの人は。
 くっと小さく笑い、右肩を中心に全身を走りぬけた激痛に、顔を歪める。指一本動かすのも億劫な  体が他人のもののようにすら感じられる中、こんな感覚ばかりが、生の証のように残っている。
 国主の弟としての地位や身分など、もとより望んだこともない。
 まして、双生の  同時に同じ母の胎に宿ったと聞かされても、あの国主に肉親の情を  “兄”を感じることなど、出来るはずもなかった。
 “兄”というなら、ただ一人。彼が育った小城塞の  
   もういい。
 思考を断ち切る。
 何もかもが――もう、ものを考えることさえもが、酷く億劫になっていた。
   どうとでもなれ。
 眼を閉じる。
 ず、と体勢が崩れ、横様に石床に倒れこむ。
 瞬間、翠緑の色合いを帯びた、ひたむきな双の眸が、どこか懸命な表情を浮かべた淡月の貌が、閉ざしたまぶたの裏に浮かんだ。
 が、それも、もはやおのれには無縁と切り捨てる。
 喪神に似た眠りに落ちる寸前、彼の脳裏に浮かんだのは、
 死にたがり。
 副官の姜進賢きょう・しんけんが彼を評した、この言葉であった。
 そうして、どれほどの間、意識を失っていたことか  
 闇の奥深く、うごめくものの気配が、蒼牙に目を開かせた。
 視界には何一つ映ることはなかったが、それでも、紛れもなく周囲の闇が蠢動しゅんどうしている。そう感じられる。
 いや。次第にその動きを大きくし、さながら嵐の海のように、荒れ狂い始めている。
 そして、海龍が波を分けて現れるのにも似て、うねり、ざわめく闇の中から現れたのは  
 《闇》  
 闇よりも深い闇。彼の意識には、そう映じた。
 周囲の漆闇さえ薄暮の明るさに感じさせるほどの、ねっとりと濃厚な。質量さえを持っているような《闇》が、彼の前にあった。
 異質な、強いて表現すれば冷気としか云いようのないものが室内を覆う。
 それは、身動きもかなわぬ蒼牙の体にまといつき、血を、魂を凍らせ、抗おうとする気力さえ奪い取ってゆく。
 《闇》が、ゆるゆると、その目に見えぬ触手を差し伸べる。
 恋人の愛撫にも似た優しさで、それが体にふれた瞬間、表現のしようもない戦慄が身裡を走り抜けた。
 どっ  と、己のものでない思考が、感情が、流れ込んでくる。
 悲嘆。恐怖。苦痛。飢え。憎悪。怨恨。呪い。嫉妬。執着。猜疑心。何かへの欲望。破壊への衝動。絶望。おおよそ『負』とされる、さまざまの感情。人の心の暗がりに潜む、もろもろの冥い想い。魂をすら凍てつかせる深い孤独。
 そして、その果てにある虚無。
 その、さらに奥から  
 言葉にならぬ言葉で。《闇》そのものの誘いが  我がものたれ、と。
 邪悪な、しかし、何かしら甘美なものを感じさせる呼び声であった。
 抗わねば  思いながら、その声の方へと引き寄せられてゆこうとする自分を、蒼牙は留めることが出来なかった。
 精神に食い込んだ《闇》の触手が、感情と記憶の襞を丹念にまさぐり、呼び起こし、執拗な愛撫の果てに、彼の意識をひとつの方向へと導いてゆく。
 そうだ。苦い絶望の中で、彼は思った。俺の愛したものは  愛するものは、何一つ残っていない。養父。養母。家族と呼んだ人々。育った城塞。国。守るべき民。尽くが戦火の中に滅び去った。そして兄は  誰よりも敬愛していた長兄は、
   俺が、手に掛けた。
 そういう宿命。告げたのは誰だったか。
 おのれの意志でなく、愛するものを害するさだめ。
 ならば  
 これ以上、生を続けることに、何の意味があるだろう。
 意志のすべてを手放し、彼は《闇》の抱擁に身をゆだねた。
 果てしなく堕ちて逝くものの放埓ほうらつな快さが彼を包み、暗黒の中に塗りこめてゆく。
 寸前、《闇》の触手にからめ取られ、抗うことも、嘆くことすら忘れ果てたような無数の魂を、蒼牙は見たように思った。
 そうして  
 一時  意志も、精神こころも、かたちさえも失って、彼は混沌とした暗黒の泥濘の中に漂っていた。
 須臾しゅゆの――あるいは那由多の時の果てに  
 遠くから。
 あるいは、自身の深奥からか。
 どことも知れぬ場所から、呼び声が聞こえた気がした。
 果たしてそれは、誰の声、誰の想いであったのか。
 それが、暗黒の虚無の中に溶け込んでいた彼の精神に、ふれた。
 ゆっくりと、人であった自覚が戻ってくる。
 深い水底から浮かび上がるのにも似て  
   生きて……いた?
 最初に生じた意識は、それであった。
 次の瞬間、凄まじいと表現するのも愚かなほどの苦痛が、襲い掛かった。
 視界が、脳が、肉体を構成するすべての分子が、真紅に弾け、ついで暗黒に叩き込まれる。
 おのれの顎から逃れようとする獲物に《闇》が爪と牙をむき出したのか、取り戻しかけた人としての意識が、《闇》の重圧に耐え切れぬのか  
 肉体と、切り離された精神と、いずれがそれを感じているのかも定かではないまま、再び捕らえられ、引き裂かれ、《闇》の体奥深く飲み込まれてゆく。
 精神の中にまで進入した《闇》の触手が、ふたたび、みたび、執拗なまでの愛撫を繰り返す。
 全身に  魂の深奥にまで張り巡らされたそれが、這いずり、蠢くごとに――細胞の一つ一つ、魂のひとかけらまでがけがされ、造り変えられてゆく感覚があった。
 厭わしい  狂気の寸前にまで追い詰められる汚濁を感じながら、同時にそれが、快感をすら伴っていることに、蒼牙は気付いていた。
 大きすぎる苦痛は、人にそれを快感と錯覚させるものか  
 堕ちてしまえ。
 自身の内側とも、闇そのものの声とも知れず、どこかで囁く声があった。
 逃れる術はない。ならば、このまま闇の抱擁にすべてをゆだねて、あの無数の魂たちのひとつに化してしまえばいい。
 感情も  人であった記憶すら捨て  
 持っていて、ただ苦しいだけのもの。それならば。
 しかし。
 いや。それゆえに。
 蒼牙は最後まで意識を  自我を手放すまいとした。
 それは、何者にも――自分自身にも屈するまいとするそれは、彼の最後の矜持であったかもしれない。
 不意に  
 《闇》の重圧が減じた。
 体の、精神の、いたるところを絡め取っていた目に見えぬ触手が、いっぽん一本ほどけてゆく。
 《闇》が引き退いてゆく気配があった。
 続いて、目もくらむばかりの光が、怒涛となって襲い掛かる。
 その光の奔流に呑み込まれ、一切が消失した。




「眠れませんか」
 青い夜の中、森へとさまよい出ようとした揺玉に、少年が声をかけた。
「うん……」
 頷くと、揺玉は風に吹き乱された髪を片手で押さえる。
「夫人の言われたことを考えていた」
 少年に目を合わせないまま、ひとりごちるように云う。
「わたしが、あの男を  聶蒼牙を想っている。莫迦な  と、思ったが」
「はい」
「奇妙なことだ。許婚殿の顔など、とうに忘れてしまったと云うに、それを討ったと云うあの人の面影は、大切なもののように、しっかりとここに焼きついてしまっている」
 両手で胸を抱くようにする。
 翠緑を帯びた双の眸は、遠く森の上に浮かぶ十七夜の月に向けられていた。
「夫人の  あの方の云われた通りかも知れない。わたしは、蒼牙を想っているのかも」
 うす雲が、月の面を流れて過ぎる。
 蕭々しょうしょうと、梢を渡る風の音が寂しい。
翎児れいじと云ったな」
「はい」
「あれから丸一日。ということは  
「生きておいで、とは思います」
「そうか」
「娘子  あ、いえ。夫人に叱られました。お二人をはく公子の手に渡さぬために、そなたを遣わしたのに、と」
 済まなそうな口調で、翎児が口を開いた。
 聞いていたと、揺玉が応える。
「望みはあると仰せでした。それだけが  
 夜風は少年の、肩に流したままの髪をも撫でて、渡ってゆく。
「でも、あの時はあの方の、聶公子の言いつけに従わねばならない、そういう気がしたのです。わたしは  もう、ほとんど絶えてしまったけれど、わたしの種族は――」
 紫暗の目が、不意に遠くなった。風の中に何かを聴くような様子を見せたかと思うと、純白の翼を散らして、少年はものも云わずに飛び立った。
 南へ。
 〈畢〉の都城へ。



                                         つづく
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| オリジナル小説 | 2013-01-23 | comments:0 | TOP↑















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