秋水長天

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闇の塔  七

 
     第三章  母子

                                       6より



 〈ひつ〉には神殿が無い。璞煌星はく・こうせいが国主となって数年のうちに、その殆どが全きまでに破壊し尽くされている。神職者たちも、あるものは追放、また、より多くのものが冥塔に投じられたという。頑として神殿を去ることを拒み、いずれ天からの罰が下されようと煌星を糾弾した神殿長が、建物とともに焼き殺されたという噂も、巷間には伝わっていた。
 ここ、城都の北の森の奥深く、幾重もの緑に守られて建つ、青月宮と名づけられた神殿を除けば。
 しかし、こことても詣でる者はもとより、神官、巫女の姿も既になく、壁の浮き彫りもひび割れ、蔦が這い、多くの房は時の侵食に任せられている。
 それでもここが他の神殿のような蹂躙じゅうりんを免れているのは、ひと組の少年少女にかしづかれて、ひっそりとこの場に暮らす佳人のゆえであったろうか。

 その婦人が、薬やら包帯やらの盆を手にした少女を従え、房の上階の一間の扉を開けたとき、蒼牙は窓辺に座して、梢を渡る風の音に耳を傾けていた。夕光ゆうかげが、衿元でゆるく束ねただけの髪に鈍い黄金の縁取りをつけている。病み上がり――というより、まだ病み伏しているさなかの、いくらか蒼白くなった肌は、生来の顔立ちの彫りの深さとあいまって、彼の横顔を、西域から渡ってきたという古代の神の彫像めいて、どこか近寄りがたいものに見せていた。
 扉の開く気配に振り返る、その仕草も、常の彼を知るものから見れば、ひどく物憂げに映るものであった。
刀自とじ殿……」
 白衣の佳人の華奢な姿をみとめ、口許が淡い笑みをかたちづくった。
 刀自――とは、一家の女主人の意。この青月宮に身を寄せて七日あまり。彼はまだ、この婦人の名を知らされておらず、婦人もまた、それを知らせる気持ちはないようであった。
「この時刻では、もう風は冷たいでしょうに、そのような場所で。何か考え事ですか」
 少女――絳花こうかに、盆を傍らの小卓の上に置くよう指示すると、婦人は常のもの静かな口調で話しかけた。
 口許くちもとに笑みを含んだまま、蒼牙は黙ってその顔を見ている。
「寝ていろと云うのに、聞かぬのですよ」
 こちらは部屋の中ほど。神殿のどこかにあった竹簡ちくかんを眺めていた楊駿が、仕方のない奴だといった口調で、丸めたそれで友の方を示す。
 云いつけられた青年の方は、ちらりと視線だけを友人の方へ向けた。
 あら――というように絳花が目をみはり、くすっと小さく笑った。
「あとはわたくしが」
 婦人の言葉に、盆を置いて退出してゆこうとする。
 合わせるように、楊駿も立ち上がった。
 どういう理由か――揺玉も、そして翎児れいじも、様子を見にしばしば顔を覗かせるが、こうして、この婦人と二人きりにされる機会が多い。
「手当てが終わったら、横になれよ」
「ああ」
「薬湯も、ちゃんと呑め。いいな」
「わかった」
 鬱陶うっとうしそうな口調で答えるのに、くすくすと少女が笑う。
「お二人は、仲がよろしいんですねえ」
 瞬間、心底意外な事を云われた顔つきで、青年二人は顔を見合わせる。
 一拍置いて、そうだなと蒼牙が答え、苦笑した。
 楊駿の方は、さらに意外そうな表情になると、つかつかと窓辺に近づき、蒼牙の額に手を当てようとする。
 その手を、ぱしりと蒼牙が払いのける。
「何の真似だ?」
「いや。聞きなれない言葉を聞いたから、熱でもあるのかと――」
 再度手を伸ばすのを、かなりいやそうな顔になりながら、今度は蒼牙は身をそらしてかわす。
「熱はない。だから、どうしてそういう結論になる?」
「………………お前が妙に素直だと、気味が悪い」
青邱せいきゅう。お前――」
 一瞬絶句したあと、ふい――と顔を窓の方に向けると、
「わかった、わかった。熱のせいにでも何にでもしておけ」
 さっさと出て行けと、犬でも追い払う手つきで、外へ向けて手を振った。
 この――と、殴りかかるふりをする楊駿を、こちらも、ちらりと笑って受け止め、反撃する真似をする。
 途端、
……」
 口中に小さく呻いて、顔をゆがめた。
「肩か!?」
「………………」
「だから、まだ無理をするなと――」
「……お前が仕掛けたんだろうが」
「それは、お前がだな!」
「これ、これ。二人とも――」
 それくらいになさいと婦人にたしなめられ、青年二人は間の悪い顔になって動きを止める。その様子が、母親に悪戯いたずら喧嘩けんかの現場を見つかった少年のようでと、絳花がまた笑い出す。
 十年ばかり前に親を亡くし、この神殿に引き取られたのが、婦人に仕えるようになったきっかけで――というのが、この少女の身の上だった。
「お二人とも、あたしよりずっと年上の男の人だとは思えない」
「絳花」
「はい。娘――奥様」
 いいか。ちゃんと寝てろよ。口の動きだけで云って、それでも婦人には礼儀正しく一揖して楊駿が出てゆくのに、蒼牙は再度、しっしっとおざなりに手を振って見せた。
 続いて出て行った絳花との、えーっ。仲良しじゃないんですかぁ。だから、あいつはだな。という会話が聞こえてきて、部屋に残った二人を失笑させる。
「まったく……」
「良い、友人ではありませんか」
 薬を整えながらの婦人の言葉に、
「ええ」
 真摯しんしな目になって、青年はうなずく。
「俺には、過ぎた友です」
 当人の前では、間違っても口に出来ませんが。うっすらと笑んで云った――友人の出て行った後の扉に向けた、眸の闇の色が、心なしか濃いものになる。
「なにか、心にかかることがおありか? げん――いえ、国主のことなら、ここには手出しはしません。安心して養生していて良いのですよ」
 婦人の言葉に、瞬間、双の眸が、鋭い、探るような光を宿した。が、それはすぐに消えて、
「いえ」
 短く答えると、蒼牙は再び、窓外に目を向けた。
 巨大な緋色の日輪が、地上に最後の光を投げかけて、森のかなたに没しようとしていた。
「なぜ、救ってくださった?」
 いくばくかの沈黙の後、そう、低く問うた。
 はっとしたように、婦人がおもてを上げる。
 青年の目は、残照の色を残した空に、向けられたままであった。
「わたくしが信用できませんか? 初対面の翎児れいじに、大切な方を託したあなたが」
 手を休めず、わざと冗談めかした口調で婦人は答えた。いつもは沈んだ色をたたえている黒い眸が、悪戯っぽくきらりと光る。
「人の好意というものが信じられぬほど、世をねているわけではない。が、それが、何の理由もなく得られると信じるほど、世間を知らぬわけでもない」
 青年が、ゆっくりと、婦人の方に向き直る。
 夜闇の色の眸が、正面から婦人をとらえる。
 くらい…。昏い眼をしている。婦人は思った。
 若いのに。この子は、まだとても若いのに……。
「あなたに――」
 声のふるえを悟られぬよう、微笑んで見せると、
「あなたに、生きていて欲しい、というのでは、理由になりませんか?」
 云った。
「刀自殿?」
 訝しげな表情なる青年に、静かな足取りで歩み寄る。
「先に、包帯を代えてしまいましょうね」
 白い、柔らかい手が、汗衫はだぎを脱がせ、薬を取り替え、包帯を巻いてゆく。
 ずいぶんと傷痕が多い。責めるとも嘆くとも取れる口調で婦人が呟いたのは、幾日前のことだったか。後ろ傷は受けてはいません。云ったら、さらに重い溜め息が降ってきた。
 不意に。
 その手が止まった。
「鋭どの」
 名を、呼ばれる。
「あなた、母御を恨んでおりますか?」
    !」
 唐突な問いであった。
 そうして、この婦人が彼の思っている人物であれば、互いに残酷なものになりかねない問いでもあった。
 恨んではいないと、恨んだことなどないと、嘘を答えられたら、どれほど楽なことか。
 捨てられたことではない。
 この世に産み落とされた、そのこと自体を。
 微かな、その人のおののきが、肩に置かれた手から、伝わる気がした。
 表情は、見ることが出来ない。
 互いに――。
「忘れ…ました」
 答える声が、かすれた。
「昔の感情ことです」
「そう」
 婦人の声は、心なしか寂しげなようにも、安堵あんどしたようにも聞こえた。
「そう……」
 包帯を巻き終え、汗衫はだぎを肩に着せ掛けると、婦人は小卓のほうへ戻ってゆく。
「何故、はくの家で、特に双生の男子が忌まれるか、知っていますか?」
 背を向けたまま云った。
「いえ……」
「古い、言い伝えがあるのです。塔の――あの《もの》を封じたのは、璞家の先祖。その《もの》の封印が解かれるのを最初に、各地に封じられた邪悪が解き放たれ、禍いの焔となって大地を覆う。その先駆けとなるのが、璞の家に生まれた双生の男子なのだと。
 璞家に双生児の生まれた例は極めて少なく、その子等が揃って成人した例は、ありません。一方か、時には双方ともが――」
「闇に葬られた、か。時には、その存在さえ――」
 記録にさえ残されず、どれほどの命が消されたことだろうか。
 愚行。蒼牙は低く呟く。
 塔の――あの《もの》の存在を知ってしまった今では、もはや、そういい捨てることは難しいが。
「昔、聞いた話がある」
 ある家に生まれた赤子が、長じて父を殺すという神託を受けた。父親は、その子の体に印をして、遠くへ捨てさせた。
 ある夫婦が、その子を拾って育て、成人した子は神託を受けに行き、父を殺すと告げられる。それを避けようと家を出た子が、旅先であやめた相手が、実の父だった。
 予言とは、往々にしてそうしたものだ。彼に物語をした老人は、そう結んだ。
 不吉な予言の成就を避けようとして、人はあらゆる――時には愚行、残忍とさえ云える行為を繰り返す。そうして運命は常に、その行為ゆえの予言の成就という、皮肉な結末を用意している。
「あなた方が、予言された子等であるか否か、そのようなことは、わたくしにはどうでも良いこと。ただ、鋭どの。闇に葬られる運命を逃れたあなたであれば、ただ、ただ、生かしたい、死なせたくはないと。そうして、叶うことなら、このようないにしえの影の落ちる地とは関わりなく――」
「刀自――。いや、娘子。あなたは――」
「世捨て人。そう申しましたよ」
 黄昏たそがれのうす闇の中、その人は、いっそあでやかに微笑んでみせた。
「それで良いではありませんか」
 夜が、ゆるやかに総てを包み込もうとしていた。



「それが、あなたのお気持ちというわけか、母上」
 煌星こうせいは、苦々しい嘲りを込めて吐き捨てた。水鏡にうつした映像に見入る双眸には、それ以上の昏い何かがたゆとうている。
 くらい部屋であった。
 多数の竹簡木簡に、西域から渡ってきた羊皮紙の類。何に使うのかも分からぬ妖しげな道具。獣の骨で作った香炉。他にも多くの薬草の類がところ狭しと並べられ、四囲には厚いとばりが下ろされている。これも西方渡来の樹脂蝋燭の明かりだけが揺らめいて、若い国主の白面に妖しい影を投げかけていた。
「いかがなされます?」
 毒を含んだ蜜の声が訊いた。白い繊手が水面の映像にかざされる。
 白蝋のおもては、今はその上半分を白い仮面に覆われている。額に埋め込まれた石榴石ざくろいしの血色が、第三の目のようにきらめいて、あるじの顔を射た。
「このまま、捨て置かれまするか?」
「捨て置くなと云うたは、そなたぞ。遠からず、躬のあだになると云うてな。ならば、捨て置くわけにも行くまい」
 母上のお心がどうあろうと。ひとりごちると、映像の消えた水面に、再び視線を向ける。
 燈影に照らし出された貌の半面に、激しい感情が現れていた。
 それは、常に傍らにありながら、今一人の子の幻を追い、心を向けていた母への愛憎入り混じった思いか、それとも、何も知らされぬまま、今、母の傍らにある半身への妬心であったろうか。
 立ち上がると帷を、そして次の間の扉を、荒々しく開いてゆく。
 中庭から見上げた空、うす赤く濁った色を背景に、黒々とそびえる暗黒の塔。
「時刻だな」
 呟き捨てると、嬋媛せんえんを従えて部屋を後にする。
 その顔はもう、常の、どこかしら仮面めいた冷ややかなものでしかなかった。


 ――生きろ……と?
 婦人の去った房、ひとり元の場所に座したまま、蒼牙は胸中に苦くつぶやく。
 ――生きていろと?
 かの女人が彼の思う人なら、そう願う理由、命じる権利もあるのだろうが。
 風が流れる。
 室内に吹き込んだ風が、ゆるく髪をなぶって過ぎてゆく。
 自室として与えられた一間。開け放たれた窓からは、視界一面、緑の森が広がっている。
 吹き乱された髪をかき上げようと、無意識に右手を動かした。
 瞬間、激痛が走った。
 ――まだ、動かせないのか……。
 胸中に呟くと、蒼牙は傷を受けた右肩に手をやる。毒傷のせいか、治りが遅い。腕全体に思うように力が入らないばかりか、時折思い出したように激痛が走る。
 立ち居振る舞いには不自由はなくなったとはいえ、この右腕では、剣を握ることは愚か、まだ小刀も使えまい。
 璞煌星はここには手出しはせぬ――そう、婦人は云った。が、国主がそれほど甘い人間だとは、蒼牙は考えていない。
 たとえ、ここに住むのが誰であろうと。
 風が――変わった。
 いつの間にか、室内に夜の気配が色濃く忍び寄っていた。
 闇が陽光に代わり、玉座に座す時刻――
 ぞわり、と。
 体の――あるいは精神の深奥で、身じろぐものの気配があった。
「くっ」
 無意識に声を上げると、蒼牙は歯を食いしばる。
 彼の中の《闇》の残滓が、外界の闇に呼応するのである。
 そうして、それは確実に彼を蝕んでゆき――
 ――いつまで耐えられるか……。
 精神が《闇》の侵食に。
 微かな、恐れに似た感情がある。
 同時に、それを冷たく嗤って眺めるもう一人の自分も。
 さらに――
 ひとつかぶりをふり、身近に置いた剣を取りあげ、鞘を払う。
 焔に似た白光が立ち昇るのが、肉眼でも認められる。皮肉にも、《闇》の洗礼を受けた代償のように、剣と、それを扱う力は増しているようであった。
 削げた青白い頬を、皮肉な冷たい笑みがかすめた。
 が、一瞬でそれは消え去り、剣を鞘に納めた青年の姿は、心なしか項垂れたように見えた。
 その姿を――
 部屋の外から、ひっそりと瞶める影があった。
 黒髪をゆるく束ねた、ほっそりとした男装の――。手には灯火の入った小さな火皿を持ている。
 ――わたしは……。
 明かりを胸元で庇うようにしながら、揺玉はそっと呟く。
 わたしは、あの人のことを何も知らない。
 越し方も、性情も、時折その身にまといつく影の理由も。
 それなのに――
 胸に浮かびかけた想いに戸惑って、その場に火皿を投げ捨てるようにおくと、揺玉は駆け去るようにその場を離れた。
 あざやかな血の色が、両の頬にのぼっている。
 ――わたしは、何を考えているのだろう。あの人を……。
 逃れるように部屋に戻ってすら、胸の動機はなかなか鎮まりそうになかった。
 どうかしている、自分でも思う。
 迫り来る夜闇に包まれ、悄然と座す青年の姿に、
 あの人を慰めてあげたい。そう思うなどと……。
 部屋の外、置き去りにされた火皿を取り上げた、ある人物の表情に、微かに苦いものが含まれていたことを、無論揺玉は知らない。
 窓の外は、今宵も星ひとつ見えぬ昏い空である。
 いつにも増して暗い夜が訪れようとしていた。



 まだ、月は姿を見せぬ。星さえも見えぬ空の下、《闇》の塔のもと、松明の明かりだけが不安げに揺らめいている。あたかも毎夜のことになった儀式に、まだ慣れることの出来ぬ衛兵たちのように。
 国主が塔の前に姿を現したときには、今宵の生けにえは、もう、すすり泣くことさえやめていた。細いおとがいをとらえられ、不吉な翳りを宿した夜の色の目にみつめられても、声を上げようとすらせぬ。娘の見開かれた目の中には、屠所としょの羊の絶望のみがあった。
 無表情に煌星が命令を下そうとしたそのとき、物陰から、文官と見える若い男が走り出てきた。取り押さえようとする衛兵の手をすり抜け、国主の前に叩頭する。
「お願いでございます。なにとぞお慈悲を持って、彼女を――彩春を、お助けください。その代わり――」
 我が身はどうなろうとかまわないと、若者は必死の思いを込めて主の顔を見上げた。
「あの娘、そなたの何か?」
 若者を捕らえようとした衛士を制し、こう訊ねた煌星の口調は、思いのほかに優しいものだった。
「許婚者でございます。半月後には祝言を行うはずの――」
 一縷いちるの望みに、若者の声が慄える。
 許婚者か。呟くと、煌星は若い二人を等分に見比べる。ともに、際立った容姿というわけではない。可憐な野の花の風情の娘と、下級の文官の職に相応しい、実直そうな若者。
 娘の髪には、質素な身なりに似つかわしくない、月光樹の花を象った高価な銀のかんざしが光っていた。
「似合いの二人だ。引き離すのは、酷というものであろうな」
 あるじの言葉に、若者の顔に希望の光が射した。が、
「祝言は、塔の中で挙げるがよかろう」
 冷淡に云い捨てると、もはや自失したように座り込んでしまった若者には目もくれず、立ち去ろうとする。
 その背へ。
 若者は、獣めいた喚き声を上げて、掴みかかった。
 予期していたように、煌星は振り返った。
 が、よけようとすらせぬ。ただ、片手をひらりと動かしたばかりである。
 それだけで、若者はその場に立ちすくんだ。
 そうしてその場に――若者の立っていた場所に、真紅の柱が出現した。
 炎が天をめがけて燃え上がるのにも似て、凄まじい勢いで血潮が噴きあがり、緋色の霧となって散る。
 そして、どさりと音を立ててその場に倒れたのは、もはや人とは見分けがたいほどに引き裂かれた、血塗れの肉塊であった。
 娘は声も立てずに失神している。
 衛士のなかにも、顔を背けているものが多かった。
 この数日、館の内外を問わず――兵の中からさえ選ばれる生け贄に、軍の間からも、ようやく怨嗟の声があがり始めていた。
 が、煌星は意にも介さない。
 一滴の返り血も浴びてはおらぬ身を、一隅に控える親衛軍の前に運ぶと、
「次の新月。狩を行う」
「狩り、と仰せられますか?」
 怪訝な顔になる宇文糺うぶん・きゅうに、
「そう。狩りだ。城外の北の森でな」
 白皙を凄艶な笑みに崩して、煌星は答えた。
 闇の塔の後ろ、鋭い、鎌の形の月が出ていた。
 たった今人の生き血を吸ったような、異様に赤い月であった。



 その、同じ夜。
 深更。
       
 耳元で呼ぶ誰かの声に、〈ひつ〉の前国主の妃、姮娥こうがの名を持っていた婦人はしょうの上に起き上がった。
「誰?」
 口にした瞬間、彼女の体は見知らぬ空間に移動している。
「母上」
 この世でただ一人、彼女をそう呼ぶ人物が、そこにいた。
 漆黒の髪と、しろい玉のような美貌の青年が、闇色の衣をまとって。
 ああ、これは夢なのだ。姮娥は思った。
 わたくしは夢を見ているのだ、と。
「さよう。夢を見ておりました」
 錆びた声が、どこからともなく聞こえてきた。
「大公子と二公子。お二人が力を合わせて、この国を守っていってくださる夢を」
 灰色の髪と穏やかな眸の老武人が、いつの間にか傍らに立っていた。
「そうすれば、昔、手前があのお方にしたことも、少しは償えるのではないかと」
「将軍――文昌どの。もう良いのです」
 かつて、幾度となく交わした会話。
「そなたは、もう十二分に償ってくださいました」
 国と若い国主と、そして、一度はおのれの手で葬り去ろうとした青年の行く末を常に案じ続けていた老将軍。その姿が、不意に真紅に染まった。
 ゆっくりと、闇の中に、あおのけに倒れてゆく。
 その胸から、白く優雅な手が、何か光るものを抜きとった。
 くしゃり。熟れすぎた果実でも握りつぶすように、その手を握り締める。
「これは、もういらない」
げん殿。あなた――」
「母上」
 冥い、深淵を思わせる眸が、底光りして産みの母に向けられる。
「あれを渡してください」
「あれ、とは、誰のことです?」
「云わずとも、お解かりのはずだ」
「ならば、わたくしの答えも、解っておりましょう。渡しませぬよ」
「あなたまでが、敵に回られるのか」
 煌星の声には、こころなしか傷ついたような響きがあった。
「わたくしが敵に回るのではない。いいえ。あなたが、愚かしい野望を捨ててくれさえすれば――」
「かつての〈畢〉の版図と栄光を取り戻そうとするのが、愚かしい野望ですか!?」
「祖先の遺訓に背き、あのようなものの力を借り、人ならぬものどもと交わってまで――国主たる身が、守るべきあまたの民をあやめてまで、そうまでして取り戻す価値のあるものではないと云うておるのです」
「あなたには、何も解ってはおらぬ!!」
 ――ああ、また……。
 館を去る五年前のあの日まで、幾度となく繰り返された会話。
 おのれのわかさゆえの無力さを嘲ったものたちへの呪詛。母への恨み。
 ――この子は……。
 この子は、いつまでたっても、手に入らぬものを求めて泣いている幼子なのだ。本当に欲しいものが何なのかも気付かずに。
「母上。あれを引き渡されよ」
 煌星が繰り返す。
 夜色の衣が、動きにつれて赤の織模様を浮き上がらせる。紅を幾重にも重ねて染めた豪奢な品。
「さもないと、わたしは。わたしは……」
「炫どの?」
 華奢にすら見える煌星の長身が、変形していた。
 ねじれ、ゆがみ、ふくれ上がり、
「あ。あ……」
 白い体を突き破って無数の触手が――うごめく《闇》が――
「炫児!!」
 悲鳴を上げ、駆け寄ろうとした。その足下が崩れた。
 果てしのない失墜感に、思わず悲鳴を上げる。
「―――!」
 気がつけば、そこは自室の寝台の上であった。
 ――予感、なのだろうか、あれは……。
 呟いて、乱れてしまった髪を掻き揚げる。
 不意に。
 短く音を立てて、灯火が燃え尽きた。
 暗黒の中、姮娥は際限のない無力感に打ちのめされていた。
 彼女はひとりであった。



                                    つづく


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rei★azumi

Author:rei★azumi
ヒト属ネコ科 コタツ猫亜種 読書ネコ
『神鵰侠侶』で金庸にハマった、金庸初心者。
とりあえず、金庸の小説全作品読破を目指すも、突如神鵰侠侶二次小説にハマる。
さて、この先、どうなりますことやら。

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