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闇の塔 八

 
  第三章  母子   承前



 そうして――。
 今日も森は、常と変わらぬ穏やかな明るさに満ちていた。
 時折、小鳥のさえずりが聞こえ、小動物が枝を駆け回る姿も見える。そよ風に名も知らぬ小さな花が揺れている。
 木洩れ陽を浴びて、木の間隠れの細道を辿る蒼牙の足取りは、この数日でかなり確かなものになってきたとはいえ、常の、異名の狼か猫科の獣を思わせるしなやかさは、まだ取り戻せてはいなかった。
じょう公子!」
 高い声に視線を向けると、揺玉と連れ立った絳花こうかが、大きく手を振っているのが見えた。二人ともが襦裙じゅくん姿で、籠を手にしている。
 なにやら盛んにかぶりを振る揺玉を、蒼牙のほうへ押しやるようにすると、ぺこりと大きく頭を下げ、絳花は向こうへ駆けていってしまう。どうやら、気を利かせたつもりらしい。  苦笑して、蒼牙はゆっくりとした歩調で、かつて姫将軍と呼ばれた娘の方へ歩み寄る。
 心なしか恥ずかしげな様子を見せると、
「絳花に教えてもらって、薬草を摘みに」
 揺玉は、手にした籠を示した。
「そなた――あ、いえ、あなたは?」
「足慣らし」
 短く答える青年に、そう、と揺玉はうなずく。
「でも、いいのか? こんなところまで出歩いたりして。もし、体に障ったりしたら――」
「あなたまで、俺を部屋に閉じ込めておこうとするんだな」
 苦笑する蒼牙に、あ、と揺玉は小さく目を見開く。
「その……まで、と云うと?」
刀自とじ殿と青邱せいきゅう
「楊――殿?」
「あの男、ああ見えて案外口うるさい」
「などと云いながら、本当は楊殿が好きなのだろう? と、そう絳花が云っていた。男の兄弟とはああいうものだろうかと、兄弟も姉妹もいない自分にはうらやましい、と。そのくせ、ならば義姉妹になろうかと云ったら、身分が違うから勿体無いなどと云うのだ」
 瞬間、眸の中を過ぎった昏い翳りを隠すように、蒼牙は傍らの梢に目を向けた。
 目についたうす紅色の花を一輪折り取って、公主の結い上げた髪にしてやる。
「あ……」
 頬を花の色に染めると、揺玉はうつむいた。
 花を折ったのも挿したのも左手。それまで提げていた剣を右手に移した不自然さに、揺玉は気付いていない。
「あの……。変ではないだろうか?」
 裙のひだに触れると、そっと上目遣いに蒼牙を見た。
「娘子と絳花が整えてくれたのだが、こういう、女のなりをするのは、初めてで……」
「いや。よく似合う」
「本当に?」
「本当に」
 女性としては長身の部類に入るのだろうが、武芸で鍛えたすらりとした体に、眸の色に合わせたらしい浅い翠の襦と、それより少し青みがかった濃い色の裙は、実際、よく似合った。
 そうかと、揺玉は恥ずかしげに微笑う。
「〈へき〉の――りんの家を継ぐべき子は、わたし一人で、琳家は尚武を旨とする家柄で。だからわたしは、幼いときからほとんど男のように育てられて。確かに、儀式の折には公主としての正装をまとうこともあったが、どちらかといえば、右将軍としての、武官の正装の方が多くて、こういう、女らしいなりをするのは、本当に初めてで。それに――」
「公主?」
「それに、女としての仕事は、何一つ教えられていなくて。だから、そなた――いえ、あなたの看病も、助けられた恩義から云えば、わたしがすべきなのだが、何一つ出来なくて。一般の兵士が知っているような、傷の手当も出来なくて。だから、せめて、絳花に教えてもらって、薬草を――」
「公主」
 重ねて呼ばれ、あ……と小さく声を上げると、口を閉じる。
 再び頬を染め、薬草を入れた籠に視線を落とすと、
「あなたは、なぜ、いつまでもわたしを公主と呼ぶのだろうな」
 小声で拗ねたように云った。
 娘らしい――かつての夜叉公主、姫将軍からは想像もできぬ仕草である。
「〈壁〉という国は、もうないと云うのに」
 意外に可愛らしい――と正直な感想を口にしたら、いつかの夜のように、さらに頬を高潮させて怒るだろうか。ふと、蒼牙は思う。
 怒った方がより美人に見える――というのもまた、正直な感想ではあるけれど。
 西方の血が色濃く現れたのか、大きすぎるほどの双の眸が、感情があらわになると緑柱石の色にきらめき、全身から横溢する生命力とともに、この姫を魅力的な存在に見せる。
 いや。泣いても笑っても、この生命力の強さが失われぬ限り、この姫は魅力的だろう。
 かれていたな。改めて思う。
 あの月の夜、泉のほとりで翠緑を帯びたこの眸にみつめられた瞬間から。
 気まぐれで、散らすのを惜しんで救った月光樹の花一輪。そう口にし、自分でも、そう思おうとしていた。
 が、しかし。
「云ったはずだ。あなたの許婚者いいなずけを討ったのは俺だと」
「戦場の習いだ。それに、親の決めた許婚。軍議か儀式の場以外では、ほとんど顔を合わせたこともない。もう、顔も忘れてしまった」
「それに、俺は、この〈畢〉の国主の双子の兄弟――つまりは仇の片割れということになる」
「だが、璞炫はく・げんではない。あなたは、あなただ。それに、そうして、命の危険を冒してまで、わたしを救ってくれた」
「公主――」
「公主ではないと云うのに!」
 思わず叫ぶように云って、揺玉は、はっとしたように口をおさえる。
 ぱさりと軽い音を立てて、籠が足元に落ちた。
「わたし――」
市井しせいの――だだの娘になると?」
「あ……」
 口許に手をやったまま、揺玉は青年の――蒼牙の顔を見上げる。緑がかった眸の中に、戸惑いの色があった。
「わたし――」
「考えたこともなかった――か」
 問いとも独語とも取れる蒼牙の言葉に、揺玉は戸惑いに眸を揺らしたまま、小さく頷く。
 そんな娘の様子に、無理も無い――と蒼牙は、この青年には珍しい愛しむような表情を見せた。
「王族、貴族の家に育ったものは、普通であれば、その身分、立場に伴なって負うべき義務を叩き込まれて育つ」
 世子であれば一族を率い、民を治める心得。次子以下は家長に仕え家を守る方。いずれにせよ共通するのは、家と民を守るのが務めであること。庶民のうらやむ贅沢ぜいたくは、その義務に対する報酬でしかない。
 急に、その義務を取り払われ、自由に生きろと言われても、感じるのは戸惑いばかりであろう。
「あなた……も?」
 ためらいがちな揺玉の問いに、蒼牙は、ふっ――と呼気を交えてうすくわらってみせる。
「ここからは南の、とうに無くなった小さな国に、小城塞の塞主の家の末子として育った。長じたら、文か武か、いずれにせよあるじとなった長兄を助けてゆくのだと、ずっと思っていた」
「…………」
「傭兵を生業なりわいに選んだのは、城塞が落ちたときに命を救ってくれた――養父の食客の一人だった人物がそうで、たつきの道としてそれを叩き込まれたからに過ぎないが、それでも、多分、性には合っていたのだろうな。そうでなかったら……今頃どうやって生きていたか――はたして生き延びたかどうか、想像もつかない」
「わたし――わたしは……」
 そのあたりの葉陰に答えが隠れてでもいるかのように、揺玉は視線をさまよわせながら、ゆっくりと、たどたどしく言葉を探る。
「城が落ちて、国が滅びた後は、璞炫はく・げんへの憤りと恨みで一杯で、何より仇を討つことと――後は、守り役の爺が云っていたように、仇を報じたあとは、なんとか国を再興すること。それしか考えられなくて……
 この国へ来て、従って来てくれた臣下のすべてを失って――あなたが、この〈畢〉の――出来るなら滅ぼして、根絶やしにしてやりたいとさえ思った璞家の血を引く人だと知らされて……。ほとんど一息に、あまりに多くのことが起きすぎて、まだ、何も考えられなくて」
「…………」
「それでも、蒼牙、もしあなたが――」
「公主」
「違う。わたしは!」
「琳姑娘? ――揺玉殿、か」
 名を呼ばれ、ようやく娘の表情がわずかに和んだのに、青年は小さく嘆息する。
 目を逸らした、その視線の先には揺れる梢。木々の緑を映してか、娘の顔はわずかに蒼い。
「仮にあなたが〈畢〉への――璞煌星はく・こうせいへの恨みを捨て、市井の、名もない娘として生きてゆくことを望むなら、それもいいだろう。だが、俺は――」
 左手に持ち替えた剣に視線を落とした。
「俺は、この一振りを友に諸国を流れ歩く。そういう暮らしが、何より性に合っている、そんな男だ。女人の望む幸せなど、与えるべくもない」
 ざあっと、風が梢を鳴らし、二人の間を吹きすぎた。
 わかっている。
 この娘の――揺玉の心は、わかりすぎるほどに解っている。
 しかし、今の蒼牙には――。
 揺玉の想いも、彼女に傾いてゆこうとする己れの気持ちすら受け入れられない、氷めいて頑ななものの存在を、己れの胸の内に抱えていた。
「所詮は、異なる世界に住むもの同士。一時、そのみちが交わったとしても、ともに歩むことは、おそらく有り得ない」
 冷たくさえ思える口調でこの言葉を口にすると背を向ける。
 歩み去る足音を聞きながら、不意にこみ上げてきた涙を見せまいと、揺玉はきつく唇を噛んだ。



「お前でも、逃げ出すことがあるんだな」
 先ほどよりさらに森の奥深く分け入った場所。木陰から歩み出た友は、面白くてたまらぬといった表情をしていた。
「万余の敵を前にひるむことを知らぬ勇士も、児女の情には弱いか」
「からかうな」
 蒼牙はいやそうに顔をしかめる。
「どのあたりから聞いていた?」
 楊駿の顔を見ようともせずに、云った。
「『あなたは、いつまでわたしを公主と呼ぶのだろうな?』というあたりからかな」
「最初からだな」
「最初からだ」
「それで?」
「なぜ、あの姫の想いを受け止めてやろうとしない」
 友の言葉に、蒼牙はふい――と顔をそむける。
「あの姫は、お前を好いている。わたしにも、はっきりと判るくらいにな」
「知っている」
「それにお前も。そうではないのか?」
「だから?」
「だから?」
 今度は楊駿の方が顔をしかめて、鸚鵡おうむ返しに問い返す。
「好いた同士なら、想いを交わすのが当たり前ではないか。それが、どうして、そんなに難しい?」
 答えず、蒼牙は古木の幹に背を預ける。どうして――再度の楊駿の問いを拒むように、わずかに顔を仰のけると、虚空に目を向けた。
 さわさわと梢を鳴らして、風が渡ってゆく。繊細な緑の網模様の隙間から、雲が流れてゆくのが見える。遠からずこの森も秋の色に――黄金と朱色に染まるのだろう。
 蒼牙――楊駿は、この二年余で呼び慣れた友のあざなを口にする。
「公主のことだけではない。お前には人と心を交わすことがそんなに難しい――疎ましいことか? いや。そうではないな。それはこの何日か――青月宮へ来てからのお前を見いてわかった。むしろ――」
青邱せいきゅう……」
「云うまい……と思っていたのだがな」
 思い切るように、一歩、友の心のうちに踏み込んだ。
「時折――お前は、生きているのが苦しいと、そう感じているように思えることがある。公主の――自分自身の気持ちすら受け入れようとしないのは、そのためか?」
 切尖を思わせる、鋭すぎるほどのまなざしを、蒼牙は一瞬友に向ける。
 が、すぐにその光は消え、闇色の双眸は無機質な、黒玉を思わせるそれに変わる。
 再び目を逸らし、彼方にゆれる緑にそれを向ける。
 死にたがり――呟くような低い声音で云った。
「蒼…牙?」
「そう――姜進賢きょう・しんけんが俺を評した。知っているか?」
「ああ」
 楊駿は少し苦い顔で頷く。しばしの間をおいて、
「莫迦なことをと思ったが、今にしてみると、確かに云えているな。そもそも、普通の人間は、単騎で龍騎兵に立ち向かったりしない」
 やや憤然とした物言いに、蒼牙はちかりと一瞬だけ苦笑を浮かべる。
 別に、好んで死にたがっているわけじゃない。吐息めいた口調で云った。
「ただ――そうだな。死んだほうが楽か、そう思うことはある。誰かの――近しい者の死を見送るよりは、自分が死んだほうが楽だ、とな。
 だから、お前が気付いていたように、深く人と関わることを避けてきた。
 時代が時代。仕方のないことだとお前は云うのだろうな。家が滅び、国が滅び、自分ひとりが生き残るなど、さして珍しいことでもない。現に、あの公主がそうだ。
 それに、こんな稼業かぎょうをしていれば、もとより死とは背中合わせ。ああ。それはいっそ割り切っている。今朝談笑していた誰彼が、夜になれば死骸になって戻ってくる。あるいは遺骸すら戻らない。それは等しく、自分にも訪れる宿命さだめだ。
 だが……。
 俺は人に禍いを、不幸をもたらす宿命さだめと――いや、青邱。思い過ごしじゃない。現にそう糾弾された。あれは――まだ十五にもならない頃。長兄について、城塞の中の市を見に行ったときだ。不祥、不吉の子と呼ばれ、周囲に死と災厄をもたらす凶星と、いきなりそう云われた。
 愛するもの、心を寄せたものに不幸と死をもたらす者と。
 相手は巫女か占者だったのだろう。灰色の髪の、灰色の襤褸らんるをまとった。
 向けられた杖の、色石や護符を結びつけた紐の色の鮮やかさと、白く濁った、見えないはずの目と皺深い顔が、そこにいてはならぬものに向ける嫌悪の表情で俺に向けらていたのが、今も奇妙なほどにくっきりと目に焼きいている。
 信じはしなかった。いや、敢えて信じるまいとしたのだろうな。
 病弱だった養母ははは早くに亡くなってはいたが、実子と分け隔てない――拾い子だなどと気付かないほどの愛情を注いでくれた養父ちち、何より、俺を一番可愛がってくれた長兄は健在で――この年齢の離れた長兄だけは、城塞が落ちた後も、生き延びた」
 兄上がいたのか。楊駿の言葉に、蒼牙は微かに頷く。双眸にごくわずか、表情が、懐かしむような穏やかな色が戻る。
「義兄は三人。うがった見方をすれば、長兄としては、家督にはかかわりのない、血のつながらない十以上も年齢の離れた義弟だからこそ、安心して愛することが出来たのだろうが。学問も武芸も、この兄が手を引いて教えてくれて。家族と呼んだ人たちの中では、俺も、この長兄が一番好きだった」
「その、兄上は今?」
 楊駿の問いに、
「死んだ」
 切り捨てる口調で云った。
「俺が……斬った」
「――――!」
「この傷は、そのとき兄がくれたものだ」
 指先が、左の頬、浅く刻まれたそれをなぞる。
「城塞が落ちたのは、青邱、前にお前にも話したとおり、俺が十五の年。
 敵軍に囲まれ、陥落寸前の塞の中、養父にこの剣を渡され、己の出自を告げられ、落ち延びるようにと命じられた。先に落とす女子供に混じってここを出て、剣を頼りに実の親を探せと。
 それ以前に、実子でないことは知ってはいた。そうしたことは、案外子供の耳にも達するものだ。それでも――いや、だからこそ。
 実の子では――じょう家の子ではないから一緒に死なせてはくれないのかと、怒り、反発し、無理に最後の出撃に加わった。初陣ういじんで、聶家の末子としての最後の戦。深手を負い、養父の食客の一人だった人物に救われ、気がついたときには何もかもが終わっていた」
 城塞も、そこに住んでいた民も、家族と呼んでいた人々も、すべてが失われていた。
 先に逃した女子供も、待ち伏せを受け、捕らえられ、見せしめとして城塞の門前で斬られたという。
「一城殴殺おうさつ
 楊駿は呻く。
「確か〈〉国のやり口だ。五年、いや、三年ばかり前に滅びた。国主が暗殺されたのが原因だったと聞く」
「らしいな」
 蒼牙は無感動に頷く。
「最初の一城を徹底的に叩く。それこそ、犬の仔どころか、鼠一匹、一木一草も残らないくらいにな。他の城塞は――国都までもが怖気をふるって、ろくな抵抗もせずに降伏したそうだ。
 それほどの――
 破壊されて、ほとんど外郭しか残されていなかった塞の前で、俺はくだんの老婆と再会した。俺がしたことだと、老婆はまた俺を糾弾したよ」
「なんということを」
しゃ大哥――俺を救ってくれた傭兵も、そう云った。もっと直裁に、老婆を殴り倒したかな。占者の巫女のというなら、何故この事態を予言し、防がなかった。それも出来ず、後から子供を罵るだけの口なら永久に閉じていろ。剛毅な人だった」
 くっ――と喉から低い笑声が洩れる。
「その――人は今?」
「さあ? 半年ほどで別れた。その人の教えてくれる江湖での生き方、傭兵として生き延びる技を身につけることだけに終始して」
 敢えて心は開かなかったのか。友の口調に楊駿は思う。失うこと、禍いをもたらすことを恐れ。わずか十五の少年――
「辛い――。確かに、きついな」
 思わずもれた呟きに、蒼牙はまた、ちらりと微笑う。葉陰からの、真冬の木洩れ陽に似たうすい嗤い。
 傭兵としての暮らしは、いっそ楽だった。蒼牙は話を続ける。
「死ぬことをいとわなければ、どれほどでも果断になれた。
 長兄が生きているらしい。噂を耳にしたのは、そんなときだった。
 聶という姓は比較的珍しい。年の頃。使う武芸。間違いなく兄だと確信した。城塞が落ちたときに、互いに、死んだものと思い込んでいた。風の噂に、生きていると聞いて、探して、西域まで流れて。自分の行動を心底後悔したのは、後にも先のもあのときだけだ。探すべきじゃなかった。切れた縁なら、そのままにしておくべきだった」
 兄を斬ったことは――
 うっすらと、しかし、凄絶ともいえる笑み。
「後悔はない」
「蒼牙」
「他に道はなかった。もう一度――いや、十度、百度、千度。同じことが起これば、俺は同じように動く。同じことを繰り返す。何より、後悔などしたら、斬られた兄が浮かばれない。それでも――」
「蒼牙」
「それでも、あのときに死んでいたのが俺だったなら、どれほど楽だったことか。そう、思わずにはいられない」
「………それで、お前………」
 いくばくかの沈黙の後、漸く――といった様子で、楊駿は口を開く。
 自分にかまうな、近づくな。この友が何かの折に口にしたのも、冷淡な態度を取り続けてきたのも――
「莫迦だな、お前は。わたしは、お前の兄上ではないぞ。それに」
 わかっている。うすく笑んだまま、蒼牙は答える。
「わかってる。それもまた偶然なのかもしれない。お前や公主を、同じ運命に巻き込むとは限らない。それでも――失くすのが恐いんじゃない。煎じ詰めれば、自分が痛い目を見るのが厭なだけなんだ。それも……わかってる」
「……………………」
「そんな男に、どんなかたちであれ、一人の女を、幸せに出来ると思うのか?」
 どれほどの間か、楊駿は言葉を失って、その場に佇ち尽くしていた。
 何を云えばいいのか、何を云うべきなのか、何が云いたいのか――。
 ようやく、口から出た言葉は、
「戻ろう。風が冷えてきた」
 それだけであった。
「体に障る」
「いや。少し、一人になりたい」
 再び幹にもたれかかると、蒼牙は目を閉じる。
「先に戻ってくれ」
「そうされちゃ、ちょーっと拙いんですがね」
 聞き慣れた声が、木立を縫って届いた。続いて、ひょろりとした男の影が、声を追って現れる。
「捜しましたぜ、聶校尉」
 影が云った。



 長く人が通っておらぬと思しい荒れた森の道を、青月宮へと一隊を進めながら、宇文糺うぶん・きゅうは不機嫌であった。ようやく、左の腕を斬り落した憎い相手に、復讐の刃を振るう機会が訪れたと喜んだのも束の間、国主は、その相手――聶蒼牙を生け捕ることを厳命したのである。
「《あれ》が、取り逃がした獲物を求めて、夜毎荒れ狂っておる。他の生け贄では満足できぬと。そなたには感じられぬか?」
 恐る恐る理由を質した宇文糺に、璞煌星はそう答えて、ぞくりとするような笑みを見せたことだった。
 それにしても、彼らの隠れ場所を知りながら、今日のこの日まで放置していたあるじのやり方は、宇文糺には、どうにも理解の出来ぬものだった。
 が、
 ――あのお方の命令には逆らえぬ。
 逆らうなど、考えただけでも骨の髄から慄えが来る。
 親衛軍の長など、この〈畢〉においては略奪の先頭に立つ以外、さしてうまみのある役職ではない。宇文糺がそれを忠実に勤めているのは、忠誠心ではなくむしろ恐怖の故であった。
 そうして、今一人。
「必ず捕らえてきてくださりませ」
 白い仮面の下から両眼をきらめかせて、そう云った女、嬋媛せんえん。愛妾でもなく、侍女でもなく、いつからか国主の腹心として傍らにはべるようになっていた女。
 自ら《闇》の者と名乗ってはばからぬ氷細工の美女が、その声に淫靡いんびな色さえ滲ませて、そう命じたのである。
 彼としては、これまで塔に投じられた人間たちの死に様を思い浮かべ、憎い相手がそれと同じ運命に陥る所を想像して、せめてもの慰めとするより方法がなかった。
 ピシッと、避け損ねた小枝が左の肩を打った。
「えい、いまいましい!」
 続けて、後続の騎手が思わず耳をふさぎたくなったような罵声が、延々と流れ出る。
 木立の隙間、目指す建物の門が見えていた。



「娘子、大変です! 城の者たちがこちらに――」
 飛び込みざまの翎児れいじの言葉に、姮娥こうがは、思わず手にしていた筆を取り落とす。ある人物に当てていた文。転がった穂先が、流麗な文字のいくつかを汚す。
 しばしの自失の後、
「わたくしが甘かったようですね」
 寂しく嗤った。
 そんな、と絳花こうかが声を上げる。
「そんな! 国主は娘子の実のお子じゃありませんか。お母様のお住まいの――」
「自分を捨てた母に、もはや子としての情など抱けぬということであろう。
 なのにわたくしは、あの子を――鋭児を、ここは安全だからと、体の癒えぬのを口実に、今日までここに引き止めてしまった。あの子を手元に置いておきたいばっかりに……」
「でも娘子。あの方のお体では、まだ旅は無理ですもの」
 少年の言葉に、我に返ったように顔を上げる。
「そう。繰り言をいっている場合ではなかった。絳児、揺玉殿は戻っておいででしたね」
「はい。何やら、お部屋でふさぎこんでおいでです」
「まず、あの方をお逃がしせねば。翎児、ついておいで」
 立ち上がり、袖を払った。
 絳児と、少女の方を向いて云う。
「お前、森へ行って、二人に追っ手の事を知らせて、無事に逃げるようにと。そうして鋭――聶公子に天街へ、かつての畢の都へお行きなさいと。かの地なら、の毒傷、《闇》に受けた傷をも浄化する術も見出せましょう」
「は、はい!」
「それから」
 寂しい、切なげな笑みが、白い顔をかすめる。
 あの子に伝えてね。耳元で早口に囁かれた言葉に、それはと少女は立ちすくむ。
「娘子、それは――」
 それはまるで、遺言のようではありませんか。云いかけた言葉を遮るように、
「早くお行き。捕まらぬように、気をつけて」
 早くと少女の背を押し、そうして姮娥こうがは、背を向ける。
 門前の兵馬のざわめきが、微かながら、早くもここまで届いていた。



 つづく

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