秋水長天

 遊子帰客 夢断故郷雲水之間    西風古道 回首一片秋水長天

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闇の塔 十壱

   第四章  暁 闇   承前





「公主!?」
 塔の入り口、追いかけてきた揺玉に驚きの声を上げた蒼牙は、
「あなたはわたしのために命をかけてくれた。ならば――」
 揺玉の繰り返した言葉に、重い溜め息をついた。
「無茶が過ぎる」
「わたしが無茶な女子おなごだということは、先刻承知のはずだ」


「だからと云って……」
 揺玉の背後、ふわりと降り立った翎児れいじと、さらにその彼方、カタカタとその場で不規則な動きを繰り返す白骨の兵の群れに視線を向け、蒼牙はもう一度溜め息を吐く。
 開け放たれたままの入り口に向き直り、
「《闇》の力が強くなっているな」
 眉をひそめての蒼牙の呟きに、
「封印が解かれています」
 扉の内側に書かれた呪言にふれた翎児が応じる。
 塔の内に《闇》を封じ込めておくために、幾重にも張り巡らされた封印。それが解かれているということは、
「《闇》を解き放つつもりか」
 独語したとき、蒼牙は少年が震えているのに気付いた。
「公主を連れて、皆のところへ戻れ」
「い……いえ」
 顔を青ざめさせながら、懸命にかぶりをふる少年に、
「だったら、ここにいろ。龍牙兵も、ここには近づけないようだ。そうして――」
 肩に手を置く。
「なにか異変があったら、俺にはかまわずに逃げろ。公主も――」
「わたしは――」
「この――」
 云いかけ、階段のほうを振り仰いで、蒼牙はわずかに苦笑する。
「この上にいるものに、あなたを触れさせるわけにはゆかない。生きて戻るつもりではいる。が……、あれを相手に、あなたまでを守りきる自身はない」
 いや。はたして人の身が立ち向かえるものか。
 ただ行かなければならない、その確信だけがあった。
「頼む」
「姫さま」
 翎児にまで諌めるように云われ、揺玉は唇を噛むとそっぽを向く。
「翎児――」
 目顔で公主を頼むと告げ、塔に足を踏み入れようとする。そこで、蒼牙の表情が鋭いものに変わった。
 袖口から、微かに明かりが洩れている。
「これは――」
 婦人の――母の襟元にあった垂飾。半透明の玉が、内側から仄かに発光している。
「星石……です、おそらく。失われたはずの。《闇》を封印するのに使われた七つの星石のひとつ。こんなところに隠されていたとは!」
「公主――揺玉殿」
 顔をそむけたままの揺玉の手を取ると、蒼牙はその掌に、さらりと垂飾を乗せる。
「あなたに預ける。俺が戻るまで」
「蒼牙――」
「蒼牙さま……」
「必ず戻る」
 云い置いて、塔の内部に足を踏み入れる。質量さえ感じられるねっとりとした闇が体にまといつき、背骨に氷柱を生じさせる。
 身裡の《闇》の残滓が、呼応するようにざわざわと音を立てる。
 蒼牙は、剣の柄に置いた手を、無意識に、関節が白くなるほどに、握り締めていた。



 ここへ足を踏み入れるのはあれ以来。
 噛み破った指先から滴る血で、壁の何箇所かに書かれた呪言を塗り消しながら、煌星こうせいは内心で呟く。
 十年前の深夜。あの時付いてきたのは――
 背後の無常鬼しにがみめいた親衛軍の長を顧みる。
 この男に親衛軍を任せたのは五年前。
 その前の長は、何やら度々意見めいたことを云ったので、嬋媛せんえんの言葉に従って、この塔に放り込んだ。
 そして、十年前のあの夜、こうして後ろに従ってきたのは――
 ――婉児えんじ。たしか、そういう名だった。
 どこへ行くのにも付いてきた、同い年の乳母の娘。だれも――母さえが、あの娘のことを覚えていないのを奇妙に思ったこともあったが。
 ――嬋媛。そう。思い出した。嬋媛が婉児だったのだ。
 《闇》の、いわば触手の先端のようなもの。煌星が求める力を得るため、《闇》が、そのわずか一部なりと力を振るうためには人の形をした《うつわ》が必要といわれ、煌星の身代わりとなった。あの瞬間から、婉児が消え嬋媛が産まれた。
 そうして、今度は――
「どうした、宇文糺うぶん・きゅう。恐ろしいのか?」
 冥塔の最上階。気配を殺すようにして背後に立つ男に、声をかける。
「我が母を刃にかけたほどの、剛の者がな」
「わ……我が君……」
 宇文糺は、もともと悪い顔色を、さらに青ざめさせる。
 眼前の、古代文字を刻んだ扉の後ろに眠るといわれる《闇》よりも、塔の外で敵味方の区別なく殺戮を行っているであろう、この世のものならぬ騎兵たちよりも、今、目の前に、鬼火めいた青白い燐光に包まれ、後姿を見せて立つ貴公子を、宇文糺は恐ろしいと感じていた。
「これは、この塔の最後の封印。これを解けば、この中のものが世に放たれる」
 煌星は、ほっそりとした指で、扉に象嵌された文字をなぞる。
「そうなれば、この世はどうなるか。が、忠実なる我が校尉よ。そなたには、それを見ずとも良いようにしてやろう」
 振り返った貴公子の双の黒瞳が、怪しくきらめく。その闇の中に、宇文糺の卑小な魂を飲み込むほどに。
 続いて、紅唇から、奇怪な韻律を持った音が流れ出た。
      !」
 塔の中に響き渡った獣めいた絶叫が、おのれの喉からほとばしったものだと悟ったときには、宇文糺の視界は鮮烈な赤に染まっていた。己の体から噴き出す血潮で。
 四肢が、首が、体中の間接が、有り得ない方角に曲がり、捩れ、肉を裂き、皮を突き破って血塗れの骨が突き出す。体の中から聞こえる異音は、骨の砕ける音だろうか。
 噴出する血潮が、扉に金銀で象嵌された文字を塗りつぶしてゆく。
 厚い扉の向こうで、封じられたものが、解放される歓喜にざわめいた。
 と見る間に、扉の分厚い金属に亀裂が走り、音を立て、凄まじい苦痛に咆哮し続ける宇文糺の上に崩れかかってきた。


 その――
 断末魔の血も凍るような絶叫を蒼牙が耳にしたのは、塔の上層へと達したときであった。
 声が途絶えると同時に、今度は別の悲鳴が――揺れ動く塔の発する轟音が闇を揺るがせた。石壁に亀裂が走り、石塵が降りかかってくる。
 そうして、それが止んだとき、蒼牙は、周囲の闇が生命を得たことを知った。
 塔の最上階へ足を速める。
「一足遅かったな」
 うごめく闇の中に立ち、璞煌星はく・こうせいが艶然と笑う。その体に愛撫を加えるように、あるいは慕いよるように、《闇》の触手がまといつく。
「この塔の――《闇》に関わるすべての封印は解かれた。間もなく、《闇》が、この世に解き放たれる」
「そのようだな」
 扉の残骸の下、かつて親衛軍の長であったものに嫌悪と憐憫れんびんの入り混じった視線を投げると、蒼牙は低く呟き捨てた。
「この国を――いや、この世を滅ぼす気か?」
 口許に弦月を刻み、煌星は無言。
「あんたに取って、この国は――この世は、その程度のものだったのか?」
「滅びるわけではない」
 ちらり。煌星は意識だけを、ごくわずか、背後に向ける。
 実態を得た闇のあわい、ゆらゆらと揺らめく、白い影のようなものが見える。
 ここに投じられ、闇のにえとなりながら、抜け殻を瘴鬼に食らわれることを免れたものたち。
「死ぬ――わけでもない。それ。このように」
 す――と、煌星が繊手をもたげ、指先で蒼牙を指す。
 ゆらり。揺らめいた影のひとつが、蠢く闇を抜け、おぼつかない足取りで蒼牙に向かう。
 まだ若い――二十歳にも達せぬ娘。瘴鬼に喰らわれたものか、顔の半分ほどは既に白骨。ぽかりと見開かれた、だだひとつの眸に中には、闇ですらない、底知れぬ虚無だけが見える。
 すうと、娘の腕が上がる。
 真っ直ぐに前に伸ばされた両の腕。
 鉤爪の形に曲げられた手が、おのれの喉に達する、その寸前。
 鞘から迸った銀光が双腕を薙ぎ、瞬転、右の肩から左の腰まで、人体を両断している。
 どさり。音を立てて転がった娘の黒髪から、質素な身なりに似合わぬ銀の花かんざしが抜け落ちた。
 返り血を避けてたたずむ蒼牙に、
「惨いことをする」
 感情を交えぬ口調で煌星が云う。
「まだ生きていたものを」
「生きている?」
 対する蒼牙の口調には、明確な糾弾の響きがある。
「これを? ただ呼吸しているだけの抜け殻を! これを、生きているというのか!?」
 こんなもので、この世を満たすつもりか。
 剣を持ち替え、一歩を踏み出した蒼牙に、ふ――と口角を緩めると、煌星は一歩を退く。
「斬るか。この兄を」
 云った。
「――兄?」
 この言葉を、これ以上皮肉な口調で発することが出来るものか。
 そんな口調でこの一言を口にした。蒼牙の表情が、次の瞬間に一変する。
 ひと瞬きの間。
 眼前の人物が、かつて、同じ言葉を口にした、別の人物に変わっていた。
「兄……上――」
 搾り出すように――その人物を呼びながら、
 ――やってくれる。
 蒼牙は肚裡とりで呻いていた。
 ただの幻影。彼の記憶のすべてを読み取った《闇》が作り上げた眼くらましのたぐい。そうと承知でも――。
「斬るか、この兄を」
 かつてと同じ。西域の衣服をまとい、昔に変わらぬ慈愛を込めたまなざしで彼を見る。誰よりも好きだった――敬愛すらしていた長兄。
「斬る!」
 そのときと同じ答えを返し、蒼牙は剣を握りなおす。
 もう一度――いや、十度、百度、千度。同じことが起きても――
 ――俺は同じように動く。同じことを繰り返す。
 それ以外に取る道はない。後悔もしない。
 ただ――
 あの時、懸かっていたのが己れ一人の命なら、この兄に斬られて果てることの方を、蒼牙は選んでいただろう。
 そうして――
 一歩を踏み込んだとき、その床が、かつての西域の城の、青と白のモザイクのそれに変わっていることに、蒼牙は気付いた。ならば同じようなモザイクの、複雑な模様の柱の連なる向こうでは、自分を友と呼んだ男の死体が、玉座に座しているのだろうか。予言と、そしてその望みの通り。
 己れの実態はおそらく、暗黒の塔の中、血を分けた兄弟――という男と対峙たいじしているのだろうが。
 思う間にも二人は火花を散らし、二合、三合と剣を交えている。
 夢の中に、そうして追想の中に、幾たびも繰り返したそれと同じく。
 しかし蒼牙は、かつてよりはるかに楽に、兄の剣を躱し、受け止められる自分に気付く。
 ならば――
 今の己れであったなら、命を奪うことなく、この兄を制することが出来たのか。
 ――いや。
 仮にそうであっても、記憶にあるままの兄ならば、ことの敗れた後までも、生に恋々としているはずがない。そのこともまた、蒼牙は知っていた。
 それより何より、
 ――過去は変えられない!
 わずかに見切りを誤った一閃が、左の頬をかすめて過ぎる。
 通り過ぎる鋼の色。わずかに遅れて散る血玉の鮮やかなあかさえも、視界に入れ、剣士の直感に従って蒼牙は身を転じる。
 捨て身で踏み込んだ間合い。
 延びきった剣が引き戻されるより一瞬早く、繰り出した剣が兄の胸を――心臓を貫いていた。
「………………」
 長兄の目が、意外なものを見る表情で、己の胸を貫いた刃を、そして蒼牙の顔を、見た。
 その双眸がふと和み、口許が微かな笑みをかたちづくる。
 からり。剣を落とした右の手が持ち上がり、血を流す蒼牙の左の頬にふれようとして、途中ではたりと落ちた。
 口許にほのかな笑みを刻んだまま、その体が、ゆっくりと後ろざまに倒れてゆく。
 ――大哥あにうえ……。
 それを眺めながら、
 ――ひとつ、訊き忘れていたな。
 蒼牙は思った。
 兄を斬れるか。この人は、そう訊いた。ならば――。
 大哥は、俺を斬れましたか、と。
 


 そう――
 内心に呟いた。その瞬間、はっきりと、意識のどこかが切り替わる感覚があった。
 耳朶を打つ、まさか――と、わずかに驚愕を含んだ声。
 上げた視線の先、声音とは裏腹に、表情というものを欠いた貴公子の白面が、闇の中に浮かんでいた。
 こういうところばかりは自分と似ている。ちらりと思う。
「戻る……とはな。戻らぬ方が、そなたにとっては幸いであったかも知れぬのものを」
 蒼牙は無言。
 ただ、己れのそれと同じ色の、実の兄――という男の眸を、みつめかえしている。
「――もっと早くに、そなたの息の根を止めるか、この塔に投げ込むか、していれば良かったのかも知れぬな。そう……初めて会った時にでも」
「何故、そうしなかった?」
「眼」
「眼?」
 ゆらりと近づいた何かが、剣の柄を握る蒼牙の腕に絡みつく。
「そう。眼だ」
 煌星はゆっくりと言葉を続けた。
「初めて会ったときにわかった。その眼。母上にそっくりのその眼で。侍女たちの、臣たちの密かに囁いていた躬の兄弟だと。楊文昌などに告げられるまでもない。……そなたは、気付きもしなかったがな」
「……………………」
「あの時も、そんな眼で躬を眺めていたな。母上にそっくりの、それでいて、酷く冷たく、無関心な。何も――この世に望むこと何ひとつないというような。そんな眼をして、そなたは、躬の望むすてべを易々と手に入れてしまう。部下の信頼。友。……母上の愛さえも。それゆえに――」
 憎かった。この世の何よりも憎んでいた。煌星は云った。憎しみもかなわぬほどに、ふかく深く憎んでいた、と。
 そして――。
 愛しかったと。
 この世に産み落とされると同時に切り離された、我が半身。 
「共に育っていたら、どうであったろうか。あるいは、せめてそなたの目に、わずかなりとも情が見出せたら。が……、それもこれまで。躬の心を乱すものは、すべて消える。母上のお心も、もう、永遠にそなたに向けられることはない。そして、そなたも――」
 煌星の言葉が終わらぬうちに、蒼牙は、がくりと膝を折った。その体は、いつの間にか無数の《闇》の触手に絡め取られている。すでに実体を得たそれに――
「逃れることはできまい。そなたの心は一度《闇》の進入を許してしまっている」
 傲然と、冷ややかに告げる煌星の声が、遠ざかってゆく。
 からり、と。その右手から離れた剣が、音を立てて床に転がったのにも、果たして気付いていたかどうか。
 精神の中に進入した《闇》が深層へ、さらに奥へと触手を伸ばしてくるのを感じる。
 己の裡に、意志の力だけで封じていた《闇》の残滓が、それに呼応して蠢き始める。
 堕ちてしまえ、と。
 《闇》の奥とも、己の心の奥底からとも知れず、囁く声があった。何もかも捨てて、《闇》の抱擁に身をゆだねてしまえ。かつてそうしたように、と。
 しかし、それを頑なに拒む何ものかもまた、彼のうちにしっかりと根付いていた。
 這うように床を動いた手が、剣の柄を探り当て、握り締める。
 何故だ。
 《闇》が発したかに思えたその問いは、璞煌星の口から発せられたものであった。
「なぜ拒む。拒むことが出来る?」
 動揺のためか、左右に揺れ動く闇色の眸を、半身と呼んだ青年の、同色のそれが捉える。凛とした、真冬の北天に輝く凍星の光を宿して。
「生きる。そう決めた」
「母上の遺言か」
「いや」
 ごく、微かな笑み。
 それに応えるように、
「蒼牙!」
 高い、女の声。
 胸元に、玻璃はりの内側に星を封じたような光をきらめかせ、右の手に剣を提げ、裂けた裳裾と長い髪を乱し、真っ直ぐに階段を駆け上がって来る――
「公主!!」
「わたしは」
 登りきったところで一度足を止めると、振り向いた青年の視線を受け止め、揺玉は息を整える。
 ざわり。ざわめいた触手が、星石の光を避けるように引き退く。
「戻る。そう云ったはずだ」
「わたしは、待つとは答えていない!」
「公主」
「男の後ろで守られて、ただ待っているようには、わたしは育っても、生まれついてもいない。自分の身は自分で守る。そうして――」
「その――娘のためか」
 煌星の、あるは《闇》の発した問いに、蒼牙の頬に刻まれた笑みが、さらにくっきりとしたものになる。 
「愚かな。今ここで逃れても、その身に巣くった《闇》は、いずれそなたの精神を食い潰すぞ!」
あらがって見せる」
 意志を示すように、剣に刻まれた文字が発光をはじめる。
 瞬く間にそれは、剣身全体に広がり、剣それ自体を光に――白い炎に変える。
 剣の発する炎が、掌を、闇に蝕まれた魂を焼く。
 浄化してゆく。
 引き退こうとする闇の触手の数本を切り落として、蒼牙は立ち上がった。
 切り落とされたそれから流れ出るのもまた闇。暗黒の色の血液。白い炎に触れて、たちどころに塵と化す。
「もはや、“人”ではないのか……」
 背後に立った揺玉の呟きに、蒼牙が微かに頷く。
「ひとつだけ――ただひとつだけ、理解できると思っていたことがあった」
 云う口調に、わずかに悲哀の響きがあった。
 嵐の海に似て、《闇》がうねる。
 その、沸き立つ波頭を透かして、璞煌星の――双生の兄の白い顔。顔だけが――
「十年前、隣国の侵攻を受け、塔の封印を解いたこと。国を――そこに住む人々を守るためなら、俺も同じことをしたろうと」
 その紙よりも白い顔に、はじめて見る表情――恐怖が浮かんでいる。
「あの――俺が育てられた小さな塢を、家族と呼んだ人々を、あの地で暮らした民を、守ることが出来たなら、俺は何でもしただろう。悪鬼にでも、この《闇》にでも、この身を売り渡しただろう。…………違ったんだな」
 体は見ることが出来ない。
 《闇》に喰らわれたか、同化したか。紅を幾重にも染めた長衣に包まれた、すらりとした肢体のあったその場所には、幾重にも重なり蠢く《闇》の触手。
 かつてこの場で遭遇した――蒼牙を取り込もうとしたそれより、重く、濃く。
 こんな姿に成り果ててまで、この男は一体、何を求めたのか。
 守りたかったものは、あるいは得たかったものは、何だったのか。
「ひとつだけ、云っておかねばならないことがあった」
 云いながら、一歩一歩、蒼牙はそれに近づく。
 ざわざわと《闇》がざわめく。
 神剣を恐れるのか。それとも、そのうねりの中に飲み込み、押しつぶそうとするのか。
 それを圧するように、剣の発する炎が、白く激しく燃え上がる。
 それより白い、作り物めいた皓い顔が、ぽかりと大きく、眼と口を開く。
 それに向かい――
「母上は、それでもあなたを想い、案じていた」
 ――愛していた。
 《闇》の中核に向け、蒼牙は剣を振り下ろしていた。



 長く〈畢〉の地に暗い影を落とし続けていた暗黒の塔。その塔に今、異変が起ころうとしていた。
 地鳴りとともに、塔が大きく身を震わせる。
 龍牙兵のことごとくが、動きを止めた。
 次々と、乾いた音を立てて崩れ落ち、塵となってもとの台地に還ってゆく。
 そして再び。三度。大地の奥底から轟音が響き渡った。
 《闇》の苦悶の悲鳴を思わせる鳴動の中で、塔が先端からゆっくりと崩壊をはじめる。
 そこから、目も眩むような白光が迸った。
 それに追われるように、濃い闇が立ち昇り、空を覆い――やがて、それさえが消え去ったあとには、降るような星をたたえた、深く蒼い空が残った。
 おい。誰かが声をあげ、別の誰かが彼方を指差し、歓声をあげる。
 その行方を眼で追った楊駿の顔に、淡い笑みが浮かぶ。
 瓦礫がれきの山と化した冥塔の影から歩み出た三つの影。そのうちの、やや小柄なひとつが、真っ直ぐにこちらへ走ってきかけ、途中で立ち止まって、後ろの二つを振り返る。
 抱きあうようにしてゆっくりと歩を進める二つもまた、途中でその歩みを止め、
「蒼牙……」
 小さく名を呼び、揺玉はその肩に頭を預ける。
 その体を抱きとめながら、青年の闇色の双眸は、束の間、わずかな翳りを宿して、虚空へ――《闇》が彼の半身を抱いて翔り去った彼方へと向けられている。
 そして、今一人の存在――瓦解した塔の中で、束の間向き合った相手――神剣の創痕を白い貌に刻んだ妖姫、嬋媛せんえんに。
「今は、去る」
 だが《闇》が完全な復活を果たしたとき、改めてこの顔の礼を。
 そういって、嬋媛は闇の中に消えうせた。
 腕の中の揺玉が、体を寄せてくる。
 その不安そうな表情に気付き、安心させるように微笑してみせる。
 その眼が、傍らに当惑気味に立っている翎児れいじを捕らえた。
 満面の笑み、といった表情で、楊駿が歩み寄ってくる。
 かつての部下たちも。
 灰狼――姜進賢が、ぴんと親指を立ててみせる。
 揺玉の背に回した腕に力を込めながら、蒼牙は《闇》の――璞煌星の発した問いに対する答えを、改めて胸の裡にのぼらせていた。
 どうやら俺は、生きているのも、さほど悪いものではないと、そう思い始めているようだ、と。


 〈かい〉に残された記録によると、〈畢〉の国主璞炫<はく・げん/rt>は、星紀四百九十八年秋、二十五歳で急病死したとされている。継嗣も、血統を受け継ぐ親族もなかったため、国の政治は数人の長老による合議制とされた。
 その後二年を経て、中原の全土を巻き込んだ大戦の後、〈畢〉は再興された皇国〈魁〉の支配下に置かれ、わずかに侯爵領としてその名を残すのみとなる。
 〈魁〉の崩壊に先立つこと二年。上古の民の血を引く〈畢〉は、事実上滅亡した。
 



   終章


 朝靄のまだ消え残る街道を、騎影二つ、ゆるい歩調で歩んでゆく。
 逞しい黒馬と葦毛を並べているのは、〈畢〉を去ってゆこうとする蒼牙と、それを見送る楊駿であった。
「ここまででいい」
 告げた蒼牙の口調は、常と変わらぬ、冷淡にさえ感じられるものであった。が、
「お前には世話になるばかりで――」
 云いかけたのを、よせ、と楊駿がさえぎる。
「お前らしくもない」
「それもそうか」
 少し頬の削げた、それでももとの顔色を取り戻した端正な面に、苦笑が浮かぶ。
「そうだな。龍がいいかな」
 友の言葉に、その表情が怪訝なものにかわる。
「木彫りだ。少しは恩に着ようという気持ちがあったら、次は龍を彫ってくれ」
 一瞬、軽く眼をみはり、手綱を握った右手に視線を落とし――そうして、蒼牙は片頬にくっきりとした笑みを浮かべた。
 この右腕はいずれ治ると、それを信じると、この友は云っているのだ。
「わかった。この次は」
 期待していると笑みを返す楊駿の眸には、それでも、一人でこの地を離れてゆこうとする友への、気遣いが満ちている。
 旅立ちの決意を告げられ、どこへ向かうのかと訊いた楊駿に、
「北へ」
 静かな決意を込めた眸で、蒼牙は答えていた。
 《闇》の逃れ去った方へと。
「お前――」
「あれを兄と認める気は、さらさらないが、あんなものを野放しにしておくのも、寝覚めが悪い」
「お前は……。また、そういう物云いを」
 じっとりとした目つきで睨みつける楊駿に、低く笑声を上げると、蒼牙は酒盃を口許へ運ぶ。
 楊駿の自邸の居間。棚に飾られた駿馬の彫刻に、ちらりと見せた笑みが、奇妙に印象に残っている。
「やはり、ここに残る気はないか……」
 溜め息交じりの楊駿の言葉に、
「“あれ”が玉座に座っている間は、亀のように首を引っ込めていたくせに、いなくなった途端にしゃしゃり出て来る。そんな連中に、これ以上付き合ってやる義理はない」
 以後の〈畢〉の政治を任せることになる長老連を、ほとんど一刀両断に斬って捨てた。
 出生の証となる神剣と、楊駿の父である車騎将軍・楊惇、そして先主の妃である姮娥の書き残したものから、長老たちによって内々にではあるが〈畢〉の公子と認められた蒼牙は、内政の処理に関しても意外な手腕を発揮したのである。
 もっとも、当人によれば、
「王族、貴族の家の次男以下は、政略のために他家の養子に押し込まれるか、そうでなければ家宰、武人として長兄とその子供たちに仕えることになる」
 ということで、養父と長兄に、実務面を相当仕込まれた、ということであった。
 その、煌星が消えた後の厄介な後処理も一段落――蒼牙の言葉を借りれば、じじいどもに押し付けても大丈夫な程度には収まった、その後のことであった。
「まったく。お前がここまで口の悪い男だとは知らなかったぞ」
「傭兵稼業も十年だ。大概、口も悪くなる」
 再び酒杯を口に運ぶ、その友の表情が、ずいぶんと柔らかいものになってきたと、楊駿は感じた。
 昨夜の、ことである。
 風が流れた。
 すっかり色を変え、ちらほらと葉を散らせ始めた街道の木々が、二人の上に影を落としている。
「やはり、公主には何も告げずに――」
 楊駿の問いに、蒼牙は、表情をわずかに寂しいものにして、無言のまま頷いた。
 待て――とも、待つなとも、今の彼には云えぬのだろう。そう、理解できる。
「わかった」
 うなずくと、楊駿は手を差し伸べた。
「戻って来い、必ず。ここは、お前の故郷だ」
 無言で笑みを返すと、蒼牙はその手を握り返す。この地を故郷と呼ぶことは出来ない。故郷というなら、ただひとつ。それでも、友の心が、ただ嬉しかった。
「運命とやらが許すなら」
 それを別れの挨拶に代え、馬腹を蹴る。
 後姿が視界から消え、蹄の音さえが遠く去った頃、新たな蹄の音が楊駿の耳に届いた。
「行ってしまったのか……」
 馬を止めると、揺玉はがくりと肩を落とした。
「わたしには、何も云わずに」
 ふわり。雪白の翼の鷹が、鞍前に舞い降りる。
「追いかける勇気がおありか?」
 楊駿の言葉に、はっと顔を上げた。
「あの時のように。だったら、追ってゆかれるといい」
青邱せいきゅう殿?」
「彼に――友と認めさせるまでに、二年かかりました。そういう男です。決して素直ではない。めったに本心も見せない。それでも――」
 聞いている揺玉の、陽光を受けて翠色にきらめく眸に、白い貌に、ゆっくりと笑みが浮かぶ。
「うん」
 ぐいと髪を払いのける。
「わたしは、あの人を追って行く。あの人が何と云おうと。どう思おうと!」
 白雲を、木々の葉を透かして、陽光が眩しい。
 この日の空は、どこまでも澄んで明るかった。


                                   了

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| オリジナル小説 | 2013-03-13 | comments:0 | TOP↑















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